密行ゲーム

レイトン ホートン

 

隊長はすばらしくおもしろい冒険を約束してくれた。

さあ、その冒険とは――

 

封   筒
 僕は気負いこんでとりかかった。何しろ僕らは退屈しきっていたのだ。3月のある土曜日の夕方だった。まだ風は冷たく1週間というもの雨が降ったりやんだりの状態で、隊の大部分が意気消沈していた。チャンキーと僕は何にもおもしろいことが思い浮かばず、スカウトハウスの春の化粧でもしてやろうとぶらぶらやってきた。そのうち自動車で通りかかった隊長が、明かりのついているのを見て入ってきた。
 チャンキーは、隊のロッカーの中身をすっかり引きずり出し、その真中に座り込んでぼんやりしていた。チャンキーは小鷹班の班長で、僕は次長だ。
 隊長が言った。
「いったいどうしたんだ。2人ともしょんぼりしているじゃないか。」
「うんざりしちゃったんです。」
 チャンキーは言った。
「すっかりね。」
「まったく。」
 僕も苦々しげに口を添えた。
「何にも起こりゃしない。おもしろいことが。小説の中じゃ、僕らみたいなのがすばらしい冒険をしているけれど、みんなうそだ。実際にはなにも起こりゃしないんだ。」
 隊長が言った。
「冒険しようと思うんなら、君次第だ。」
「どういう意味?」
 チャンキーは聞いた。
「出かけていって、自分で冒険を探せよ。」
「へーっ、アーサー王の円卓の騎士でもまねろっていうんですか?」
 僕は大声を出してやった。
「それなら、さびた弓でも貸してもらいたいね。隊長は自分で何かすばらしいニュースを今ここに持ってこられないもんで、そんなことを。」
「隊長は冗談を言ってるんだよ。」
 チャンキーが言った。
「いや、そうじゃない。」
 隊長は言った。
「ジョン・ブキャンが単調な毎日に飽き飽きした3人の男のことを書いていた。彼らは退屈凌ぎに、途方もないことを始めたんだ。そういうのはどうだい?」
「ああ、いいとも。」
 僕は言った。
「考えてくれればなんでもやるよ。」
「よしきた。」
 あとへ引けなくなった隊長は仕方なく言った。
「それが挑戦状だというんなら、受け取るよ。1週間ばかり待ってくれ。きっと何か考えてやる。すばらしくおもしろいことをな。」

×      ×      ×

 何にも起こらずに10日が過ぎた。すると隊長が、復活祭の休みに12人ほどでキャンプをすると言い出した。
「そりゃいい。」
 チャンキーが言った。
「場所はどこ?」
「悪いな。」
 隊長は言った。
「君とジオッフは行かないことになっているんだ。」
「何だって?」
 僕はびっくりした。
「どうして?」
「その代わり君たちは、たいへんな冒険をするんだ。キャンプに行けば4晩で30シリングかかる。それだけを君たちはその冒険にかけるというわけさ。」
「いいだろう。」
 チャンキーはうなづいた。
「で、その冒険ってのは?」
「まあ、待て待て。」
 隊長は言って、あとは貝殻のように黙り込んだ。
 誰と誰がキャンプに参加するかはすぐわかったが、気味の悪いことに誰も場所を教えてくれなかった。
「秘密だよ。」
 ふくろう班の班長のウオーリーは言った。
「みんな秘密だ。口に出した者は仲間に入れないことにしてある。」
 その夜、隊長は僕たち2人に後に残るように言った。
「いいかい、復活祭にキャンプをするって言ったろう。木曜から月曜までだ。君たちはいっしょにはこない。しかし君たちもやっぱり出かけるんだ。」
「どこへ?」
 僕は聞いた。
「ある秘密の場所へだ。」
 隊長が言った。
「着替えとレインコートと歯ブラシだけあればいい。湯沸しも必要になるかもしれないな。だけどくれぐれも言っておく。荷物は多くするなよ。」
「テントは?」
 チャンキーが聞いた。
「テントも毛布も必要ない。」
 隊長は答えた。
「こういうわけなんだ。木曜の午後4時ちょうどに君たちはイルクリー街の地区コミの家に行く。彼はすぐに君たちを目隠しして、すばらしい高価な自動車である地点まで連れて行ってくれる。知らない土地へだ。そこで君たちは封筒を渡されて置き去りにされる。封筒には、ある場所である書面を受け取るようにとの指示が入っているはずだ。君たちは、その書面を復活祭の月曜日午後6時までにこの町の郵便局で投函しなければならない。どんな方法でこの町まで戻ってもいいが、バスと汽車は使わないように。わかったかい?」
 僕は言った。
「あんまりおもしろくなさそうだな。」
「いや、おもしろいぞ。」
 隊長はにやにやしながら言い返した。
「少なくとも、そう願うよ。君たちは腕章をつけて行くんだ。その腕章を誰かに取られたら、つかまったことになる…。」
「そんなことならやったことがある。」
 チャンキーがいまいましそうに言った。
「去年のキャンプで…」
「だけど、」
 隊長がさえぎった。
「今度は、君達はたいへんなハイクをするんだ。道々のスカウトはみんな見張っている。地区コミがそれをひとつのスタンツとして取り上げ、君たちをつかまえた隊にトロフィーを贈ることにした。1年間優勝隊はトロフィーを保持する。2人のうちのどちらかひとりでも無事に帰れたら、トロフィーはわれわれのものだ。これからは毎年の行事になるんだ。君たちが第一陣というわけさ。」
「どこで寝たり食べたりするの? それも許されないのかな?」
 僕はそれが心配だった。
「それも封筒の中に書いてある。しかし自分の頭も使えよ。帰り道の途中、近くで隊がひとつふたつキャンプしているだろうということだけを言っておく…。」
 一条の光が見えた。
「僕らの仲間もその中にいるんだろう…だから、秘密の場所についてだって。」
「そうかもしれんな。」
 隊長が言った。
「しかし、みんなが知っているのは、木曜日の午後7時、どこかの村で君たちが書面を受け取るということだけなんだ。実際の場所は誰も知らない。君たちだって、封筒を開くまでは知らないんだ。これで説明は終わり。簡単だろう。木曜日午後4時に地区コミの家を出発する。そして書面はこの町で投函しなければならない――月曜の6時までにだ。出発の前にはよく食べておけよ。それから、荷物は多く持つな。」
 ここで、ちょっと自己紹介をしておこう。僕は、リーズから20マイル、デイルからもさほど遠くないヨークシャーのリッシントンという小さな市場町に住んでいる。僕たちの隊には班が3つあり、僕は小鷹班だ。班員はみな2級スカウトだが、チャンキーだけは真の1級スカウトである。
 気の毒でとても目の前で口に出すことはできなかったが、僕たちは2人とも隊長の計画をすばらしい冒険だとは思わなかった。計画に参加しているスカウトはきっとたいした働きもせず、ゲームが始まってからも僕たちの影すら見つけることができそうには思えなかった。チャンキーも言うとおり、親切な人をひとり見つけて、その人の車に同乗させてもらいさえすればいいんだ。たちまち無事に町まで帰ってきてしまうに違いない。しかし、地区コミや隊長の考えは尊敬しなければならない。たとえそれが見当違いであってもだ。だからまあ、ゲームに参加しよう。まったく義理ってやつは、あああ、やれやれだ。
 長々と議論した末、隊長の言うとおりレインコートと替えのシャツとズボン、それにタオルを持参することにした。
「歯ブラシは、」
 チャンキーが言った。
「いらないよ。ハシバミの枝でことは足りる。歯ブラシ1本だって荷は軽くしなければ。湯沸し――必要だな。それにコンパスと鉈だ。」
「鉈は、」
 僕は口を挟んだ。
「歯ブラシよりちょっとばかり重いな。」
「そうだな、じゃやめてと。食糧はどうしよう?」
「小麦粉とオーツとバターに乾ぶどう、そのくらいでいいだろう。それだけあればダンパーとオートミールができる。それにビタミンも補充できるさ。」
「よし、だが量は小さなブリキ缶に入るくらいに少なくしなければ。それからマッチを忘れるなよ。そのほかに、懐中電灯と、石膏だ。」
 僕は石膏に異議を唱えたが、チャンキーが動物の足跡を集めるのにあまりに夢中なので、彼の主張を聞き入れなければならなかった。とにかくこれで、誰も荷物が多すぎると文句をつけることはできまい。
 木曜日がきた。みんな朝からキャンプに出かけていった。2人だけは後に残り、午後4時きっかりに、サンドイッチをポケットに、着替えを小さなザックに、地区コミの家を訪れた。彼の車A−60に乗り込むとすぐ僕たちは用意された黒いネッカチーフで目隠しをされた。地区コミはちょっと戸惑っていて落ち着きがなかった。一所懸命に何気ない口調を装うとしていたが、しまいには疲れて黙り込んだ。彼は警官が怪しみはしないかと心配しているんだろうとチャンキーが言った。実際怪しまれても不思議ではなかった。
 1時間以上も僕たちは黙ったまま揺られた。時々人や車の音が窓を走りすぎ、ああ、村を通っているんだな、と思わせた。長かった。やっと車が止まったときには疲れが感じられるほどだった。
 地区コミの声がした。
「まだ目隠しをとってはいけない。」
 ドアを開けると彼は僕たちを降ろし、座るように言った。草の上だった。
「これが封筒だ。」
 彼は封筒をチャンキーの手に握らせた。
「ネッカチーフを取る前に100数えたまえ。さあこれでいい。うまくやるように祈ってるよ。それじゃまた。」
 ドアが閉まり、ギアを入れ換える音が聞こえ、車が戻っていった。2人だけになったのだ。日光がひざに暖かく、茂みで鳥が鳴いていた。チャンキーは大声で数えた。100まで数え終わったとき飛行機が頭の上を飛んだ。目隠しがずり落とされた。
 田舎道に座っていた。道の両側には丘が迫っていた。
 チャンキーが言った。
「どのくらい来たんだろう?」
 僕は時計を見た。
「5時半だよ。僕たちを混乱させようとして地区コミが回り道をしなければ、まあ50マイルってとこだね。」
 口笛を吹いてチャンキーは言った。
「たったそれだけか。4日で歩いて帰るとして1日12マイルじゃないか。」
「いや、ずいぶん遠いよ。だけどもちろん帰れるさ。封筒の中身は何だろう?」
「ああそうだ。封筒を持っていたんだっけ。」
 封筒を破ると簡単にタイプした紙が1枚出てきた。
「6時半に大通り18番地へ。合言葉は“密行ゲーム”」
 僕は人気のない通りを見渡した。
「これは大通りでないことは確かだ。出かけようぜ。」
「どっちへ?」
「坂を登るのさ。丘に出るだろう。村は谷にあるだろうから、見極めをつけてから丘を下るんだ。」
 その通りだった。角を曲がると道は砂利道に交差した。そこには、後方2マイルでヘザーリー村へ、左方5マイル4分の1でカークデン村へとの標識があった。
「ヘザーリー村だ。」
 チャンキーが言った。
「6時半までには着ける。カークデン村には無理だもんな。」
 ほどなく家が見えてきた。それから、巨大なぶなの木の植わっている村の広場についた。おじいさんをひとりつかまえて大通りはどこかと聞くと、手を振りながらあきれたというように返事をしてくれた。
「おまえさんがたの立っている道じゃがな。」
 18番地はぶなの木の脇のこぎれいなレンガの家だった。まだ6時半前だったので、郵便局の売店で地図を買ってこようということになった。売り子は大騒ぎをした末に、色のさめた古い旅行者用地図を手渡してくれた。僕らはぶなの木の下に座り、地図を調べ始めた。
 僕たちの村リッシントンは地図の南東の隅にあった。ヘザーリー村を見つけるのには手間取った。村は地図の北西、リッシントンに流れ込む小川の脇、丘に囲まれた地点だった。
「おやおや、鳥のように一直線に飛べば、たった40マイルだ。」
 チャンキーが言った。
「残念ながら鳥じゃないからな。」
 僕は答えた。
「道が曲がっていることを計算に入れればあと12マイルはある。50マイルはあるだろうな。乗り物が使えればいいけど。」
 教会の時計が6時半を打った。
「書面とやらを受け取る時間だ。」
 と、チャンキーは言った。
 出かけて行って18番地のドアを叩くと、中で足音がし、鎖の音が聞こえ、鍵がはずされた。ドアがほんの数インチ開き、度の強いメガネをかけた小柄な禿頭の男が黙ってのぞいた。
 ばつの悪い思いで僕は言った。
「ああ、あの――密行ゲームです。」
 ドアを大きく開くと、男はこそこそした動作で僕たちを中に招き入れた。部屋に入ると彼は笑顔で手を差し伸べた――左手を。
「よく来たね。僕は隊長で、今夜君たちに宿を提供することになっている。渡せねばならない書面があるんだが、それを取ってくるまで休んでいたまえ。」
 彼は机に向かうと長い封筒を2つ用意し、厳重に封をした。ちょっとびっくりした。封筒は非常に大きく、上着のポケットには入りそうもなかった。地区コミの宛名が書かれ、切手が貼られていた。
「大切にするんだよ。これをどうするかは知っているね? やさしい仕事ではないぞ。隊長たちがヘザーリー村の隊と連絡をとってあるし、カークデン村のスカウトや、その他大勢が待ち構えている。しかしこの家では安全だ。家内が面倒を見てくれるよ。」
 彼は胸のポケットから紙を取り出した。
「ここに4人の住所が書いてある。みんなリッシントンへ行く途中に住んでいる人だ。君たちの味方だ。頼めば寝床と食事を提供してくれることになっている。」
「どうもありがとう。」
 チャンキーは受け取って言った。
「台所には火が燃えている。食事をしたらどうだい? お腹がふくれたらベッドに案内しよう。」
 彼は窓に近づいてカーテンを閉め始めた。もう薄暗くなっていた。突然カーテンを引く手を止めると彼は言った。
「この村に来てどのくらいになる?」
「まだ30分です。」
 僕が答えた。
「6時半になるまで広場に座って…」
「やれやれ、隠れていなければならないのに。もうここにいるのが知れ渡っちゃったぞ。みんな今夜君たちがこの家にいることに気がついた。」
 そっと外をのぞいた。2人の少年がぶなの木の近くに立っていて、ひとりは家を指して声高に喋っていた。襟にバッジが光って見えた。僕は胸が騒ぎ、スリルを感じた。密行ゲームが始まったのだ。
 家の主人はカーテンを引くと言った。
「気の毒に、明日この家を抜け出るのは容易じゃないぞ。よっぽどうまくやらないとな。」

 

 

最初のつまずき
 僕たちが受け取った大きな封筒をザックにしまうと、隊長は夕食をとるようにと食堂に案内してくれた。
「封筒は2通とも投函しなければならないんですか?」
 チャンキーが尋ねた。
「いや、2通とも同じものだ。月曜の6時までにリッシントンで1通だけポストに投げ込めばいい。それで君たちの勝ちとなる。だから、君たちのひとりがつかまっても、まだ勝つ見込みはあることになるんだ。」
 彼の奥さんは快活な人で料理が上手だった。ソーセージとポテトフライのすばらしい夕食をご馳走になると、彼は寝室に案内してくれた。大きなダブルベッドが置かれており、ヘザーリーの丘を見渡せる大きな窓のある部屋だった。服を脱ぎながら外を眺めた。満月が輝き、ぶなの木を銀色の光で覆っていた。ひとりふたり男の姿が見えたが、スカウトは影も見せなかった。
「悪い考えじゃないぜ、」
 チャンキーが言った。
「今抜け出すってのも。」
「それで毛布もなしに野宿というのか?」
 僕はぞっとしてチャンキーがそれ以上言わないうちに大急ぎでベッドに飛びこんだ。
「僕はいやだね。そりゃ、スカウティングでは外にも寝るけど、やっぱり気持ちのいいのはいいもんだからね。村の人が起きる前に朝早く出発したっていいさ。」
「目が覚めればね。目覚し時計を持ってくるんだった。」
 替えのシャツとズボンをパジャマ代わりに着るとベッドの中に座って地図を広げた。ヘザーリー村は森の近くにあり、小川に沿ってカークデン村に通じる道が走っていた。チャンキーがはかると、12マイルほどあった。
「これが明日の行程だ。」
 彼は言った。
「そのあと2マイル歩けばメイプルソープとかいう所に出る。たしかそこには味方がひとりいたはずだ。」
 彼は住所を書きつけた紙を広げた。
「ほら、ね。メイプルソープ、サンドホーハウス、とある。してみるとカークデン村ではスカウトが待ち伏せているというわけだ。森を抜けて回り道をして、カークデン村には近づかないことにしよう。村を過ぎたら通りに出て、車に同乗させてくれる人を探そうじゃないか。」
「よし。」
 僕の考えも同じだった。
「ヘザーリー村から、きっとうまく抜け出してやるぞ。」

×      ×      ×

 チャンキーに肩をひどくゆすぶられて目が覚めた。カーテンを通して夜明けの灰色の光が差し込んでいた。朝は冷たく意地悪に見えた。
「起きろ、起きろってば。睡眠薬を飲みすぎたわけじゃあるまいし、もう起きる時間だぜ。」
 僕は自分がどこにいるのか思い出せなかった。
「何時だい?」
「5時ちょっと過ぎだ。村の人が目を覚ます前にここを抜け出そうって言ったじゃないか。この家の人を起こす必要はないね。お礼の手紙をテーブルに置いておこう。さあ、立てよ。」
 チャンキーなんかどこかへ行ってしまえとでも言いたかった。この暖かくて気持ちのいいベッドから外へなんか出られるものか。ヘザーリーとリッシントンの間、どこかでは僕たちの隊の仲間がみんなまだ、気持ちよくテントの中で毛布に包まれ、あと2時間半は寝ていられるというのに。しかしチャンキーが洋服を投げてよこした。
 静かに服を着ると、懐中電灯の光を頼りにつま先立って下に降りた。チャンキーが湯を沸かしお茶を入れる間に、僕は食料戸棚から夕べの残りのソーセージを2つ見つけた。
「かまわないと思うよ。」
 チャンキーが言った。
「こんな風にして勝手に食事をしても。」
「まさかソーセージ2本で叱られることもあるまい。」
 僕も答えた。
「ザックに空になった薬ビンが入っているんだ。ミルクとお茶の葉を少し頂いていこう。」
 玄関からこっそりと外に姿をあらわしたのは6時近くだった。ニワトリの鳴き声が聞こえ、国道をトラックが走ってきた。運転手は僕たちを見るとうなづいて呼んだ。
「おはよう!」
 僕たちは、昨日歩いてきた道を通って村を出た。家々には灯は見えたが人っ子ひとり見かけなかった。道標のある地点まで行かないうちに門を乗り越え、耕された畑を横切って森に入った。ピッチをあげて歩いた。空気は冷たく風が葉に音をたてていた。鳥が低い枝に止まって鳴いており、ウサギが驚いて足元から走り逃げた。
 2時間近く森の中を歩きつづけた。突然、わだちの跡のある細い道に出た。向こうには、岩に泡を立てる川の水が白く光って見えた。また一方には木々を通して家並みが見えていた。
「カークデン村だ。」
 まるで村が見張りのスカウトで溢れているかのように、チャンキーは大急ぎで僕を森の中に引きずり込んだ。
「よーし。」
 僕たちは黙ったまま、また歩き始めた。太陽は高くのぼり、森は浅くなった。川の音がたえず近くにあり、時々は森を通して耕された畑が見えた。
「もうカークデン村は後になった頃だ。」
 立ち止まって僕は言った。
「お腹がすいたよ。ちょっと休んで食事といこうじゃないか。」
「オーケー。」
 チャンキーは気のなさそうに、それでも同意した。彼は1日中だって休みなしに歩きたかったんだと思う。
「何にしよう?」
「オートミールにお茶、それにダンパーでも作ればいいだろう。」
 僕がこう言うと、
「料理をしようというんじゃないだろうな。」
 チャンキーは、恐ろしそうに叫んだ。
「どうして、いいじゃないか。今日の予定は半分歩いちゃったのに、まだ8時をちょっと過ぎたばかりなんだぜ。」
 焚き木にしようとさんざんかばの木を探したが、ぶなとくりの木ばかりで見つからなかった。仕方なく、古い鳥の巣で間に合わせた。巣は乾燥した小枝と草とをとにかく提供してくれた。チャンキーが枯れ枝をひとかかえ集めてきたので早速火を燃やした。川の水でお茶を沸かし、湯沸しからじかに飲んだ。しかしチャンキーが遅くなるといってせかすのでオートミールは断念して、その代わりにサンドイッチで食事にした。
「もう道を歩いても大丈夫かな?」
「大丈夫だと思うよ。だけど、川のこちら側の細道の方が大通りより無事だろうな。川の向こうには大通りがあるんだが、どうやって川を渡るかが問題だ。」
 地図の上に頭をつき合わせて考えた。カークデン村より1マイルと4分の3のところに浅瀬があった。
「もう通り越しちゃったのかな?」
 僕は言った。
 チャンキーは立ち上がって、地図をたたむとポケットに押し込んで言った。
「まず、一応川を下ってみよう。もし浅瀬が見つからなかったら道を戻るんだ。さあ、大急ぎでやかんを洗おう。」
 道に出ると僕たちは、川を渡れる浅瀬を探しながら歩いた。川は数ヤード向こうを曲がりくねって走っていた。水は静かに澄んでいると思うと、あるところでは、突き出した岩の間を怒ったように走り抜け、またあるところでは、白い泡となっておもちゃのような滝を流れ落ちていた。向い側には大通りに境を接した生垣が見え、中で時々農作機の音が聞こえ、珍しい農業用自動車がのぞかれた。2度ほど、僕たちは靴と靴下を脱いで川を渡ろうとしたが、1ヤードも進むと水はひざの上まであがってきて、まだまだ深くなりそうだった。
 2度目に失敗した後、靴をはきながらふと道の方を眺めて、僕は飛びあがった。ひとりの若い男が、僕たちが乗り越えてきたあの柵を登ろうとしていた。僕がそちらを向くと、男は笑って手を振った。
「逃げるんだ。」
 僕は叫ぶと、ザックをわしづかみにして、チャンキーを待たずに畑を走り出した。
 チャンキーも、まるでロケットみたいな速さで追いついた。しかし彼は、片方の靴を手にぶら下げたままだった。若い男は何か叫びながら、後を追いかけてきた。何を叫んでいるのかわからなかったが、立ち止まって、何ですかと聞くわけにはいかなかった。僕がまず柵にたどり着いた。柵を飛び越えると、道路に出ようと門に向かって走った。向こう側には木立が見え、そこまで行きつけば逃げることも可能に思えた。しかし門にたどり着く前に、僕は大きな声を耳にした。振り返ると、チャンキーが草の上に転がるのが見えた。彼は、柵を飛び越えたところで切り株につまづいたのだ。男は柵を乗り越えてきた。チャンキーは逃げる機会を失ったのだ。僕は、いつでも走って逃げられる態勢をとりながら、彼がつかまるのを見守った。
 おかしな事が起こった。若い男はチャンキーの腕章を剥ぎ取ろうとしないのだ。彼は近づくと、チャンキーを助け起こそうと手を差し出した。
 チャンキーがこう言うのが聞こえた。
「やれやれ、完全に負けたよ。」
「何のことですか?」
 男が聞いた。
「あなたたちは、僕が侵入者を追いかけてきた管理人とでも思ったのですか?」
 チャンキーは目をしばたたいた。するとこの男は、密行ゲームのことを何も知らないのかもしれない。僕も2人に近づいた。そしてなぜ、僕たちが逃げたのかを、2人で説明した。
 彼は笑って言った。
「君たちがあんなにして逃げ出したときには、僕も本当のところ、ちょっと腹が立った。実はサイクリングの途中、これを見つけたのですよ…」
 彼は地図を差し出した。チャンキーは地図を落としたことを気づいていなかった。
「そのとき私は、君たちが川の中を歩いているのをみつけたので、たぶん君たちのだろうと思ったんです。ただ地図をお返ししたかったんですよ。」
 僕は、彼に浅瀬のことを尋ねた。
「だいたい半マイルほど先に飛び石が置いてあるところがあります。そこで川を渡ればちょうどカークデンむらに通じる大通りに出られますよ。」
「カークデン村ですって?」
 2人とも彼の顔を見つめた。
「もう30分も前に、カークデン村は通りすぎたと思っていたのに。」
「お気の毒ですがまだですよ。さっき見た村のことでしたら、あれはムーア・エンド村で、ごく小さいものです。」
 僕たちはそろって道に戻り、彼は浅瀬まで僕たちに同行した。道が二筋にわかれ、一筋が水際に通じていた。広い平らな石が数個水から顔を出し、川が渡れるようになっていた。彼は、僕たち2人の成功を祈ってくれた。
「さーて。」
 チャンキーが言った。
「やってみるか。カークデンではスカウトが見張っているかもしれないが。」
 僕は答えた。
「大通りの方が無事だと思う。ここでは車に乗せてくれる人なんかありっこないからな。道を突っ切って、村の裏側へ回るんだ。それから同乗させてくれる車を見つけよう。」
 石は非常にすべりやすかった。平均をとりながら注意深く渡らなければならなかったが、僕たちは無事向こう岸に到着した。まっすぐ原っぱを横切り、生垣を越え、塀を攀じ登って荒地に出た。丘が目の前に迫っていた。けわしい行程だった。道らしい道はなく、雑草が生い茂り、足を奪った。鷹が絶え間なく飛び交い、獲物を探して舞いあがったりしていた。カークデン村は木立を通して下の方に見えた。川はひっそりと姿を隠していた。村を過ぎるのには長い時間かかった。しばらくしてチャンキーは、2人が崩れそうな石塀のところに差しかかると、向こうに見えるずんぐりした灰色の農家を指差して言った。
「すっかりのどが乾いちゃった。あそこで水を飲ませてもらおうじゃないか。」
「それからあそこで卵を売ってくれるかもしれない。もう昼ご飯の時間はとおに過ぎちゃってるんだ――待てよ、もしかしたら食事によんでくれるかもしれないぞ。」
 チャンキーは舌打ちして言った。
「まったく君が考えることといったら、食事のことばかりだ。何より先に進むことが重要なんだぜ。」
 僕たちは2人とも少しがっかりしていた。あんなに朝早く出発したにもかかわらず、カークデン村までの7、8マイルの行程に、何と12時までかかってしまったのだ。黙りこくったまま畑を横切り、もうひとつ別の塀を攀じ登ると農家の庭に出た。1匹の雑種の犬が、吠えながらまた同時に尾を振りながら駆け寄ってきた。チャンキーは警戒して塀の上にのったまま言った。
「困ったね。あの犬のどっちの先を信じたらいいんだ。しっぽはぼくらを歓迎しているように見えるし…。」
「吠えてる間は、かみつきやしないよ。」
 僕は待ちきれなくなって塀から飛び降りた。犬は、僕の顔をなめようとしたのか、飛びついた。
 さんざん扉を叩くと、女の人がエプロンで手を拭きながら出てきた。あいさつすると、気持ちよく水も飲ませてくれるし、その後では卵とパンを売ってくれた。塀が、道路からの視界をさえぎっている畑の隅に火を起こし、ミルクの中に卵を割り込んだ。トーストも作ろうと思ったが、パンからただ煙を引き出したに過ぎなかった。食事の後、僕たちは長い間座り込んで休息をとった。先へ先へと行きたがるチャンキーのくせも、丘に沿ったつらい行程に引っ込められてしまった。
 数ヤード離れたところの日陰に、小さなモグラが見えた。何か黒いものが塀に沿って動くなと思って見ていたのだ。
 僕はチャンキーを突っついた。
「何だ?」
「モグラがいるんだよ。」
 彼は身を起こすと、僕と一緒に、静かに眺め始めた。モグラはひと休みすると、また何かを枯葉の中で引っ張り始めた。すると、1匹の虫が見えた。モグラは虫のしっぽをしっかりとくわえていた。しばらくすると、モグラは虫を穴から引きずり出すのに成功し、前足で押さえると、虫を食べ始めた。しかし、食べ終わらないうちに塀の所からかすかな音が聞こえた。小さな茶色のイタチが、7インチの体に怒りをみなぎらせて飛び出してきた。しかしそのときには、モグラの姿は見えなかった。
 ちょっとの間、イタチはモグラの穴をかぎわけようと鼻を鳴らしていたが、そのうち見えなくなった。しかし、モグラの穴の入り口を見つけたに相異ない。畑にまた姿をあらわすと、次の瞬間にはモグラを口にくわえていた。モグラは身をくねらせると、イタチがひるんだそのすきに、再び穴に逃げ込んだ。イタチは怒って音を立てたが、あきらめると垣根の中に消えてしまった。
 チャンキーは石灰を手にすると、戦いの跡を調べに行った。
「土が乾きすぎてる。足跡が残っていないや。どっちみち水がないから、足跡は型どれないけど。」
 彼は石灰をザックにしまうと言った。
「さあ、出発だ。」
 僕たちは門を攀じ登って道に戻った。卵を食べて少しは元気が出たが、ペースを上げようとはどちらも言い出さなかった。2人ともこっそりと、誰か慈善家が現れて、メープルソープまで車に同乗させてくれないかなと思っていた。しかし、車は1台として通らず、ただ、パン屋の車が1台、反対方向に走って行っただけだった。
 すると、天からの贈り物のように、角を曲がって自動車の音が聞こえてきた。ハンドルを握っている人だけで、あと同乗者はひとりもいない自動車だった。僕たちは道の脇に黙って立ったまま車を見送ろうとしたが、運転手が自分で車を止めて窓から顔を出した。
「乗るかい?」
 2度聞かれるまでもなかった。後ろの席に、僕たちはほとんど転がるようにして乗り込んだ。運転手はクラッチを入れた。
「あまり遠くまで乗せてあげるわけにはいかないんだ。」
 彼は、後ろを向かずに言った。
「本当のことを言うと、僕はもう3度もこの道を行ったり来たりした。君たちに会いたくてね。」
 冷たい手が僕の腕を握った。チャンキーがドアの取っ手を握ったのが見えた。しかし、飛び降りるのにはスピードが出過ぎていた。運転手は突然振り返ると、ブレーキをかけながら言った。
「どうぞお入りください、と、クモがハエに言ったんだ。」
 彼は勝ち誇ったように笑っていた。やっと僕にもスカウトバッジがボタン穴にはめられているのが見えた。
「自己紹介しようかね。」
 彼は言った。
「僕はカークデン隊の隊長だ。もちろん、君たちの持っている封筒を頂きたいのさ。」
 僕たちは罠にはまったのだ。

 

 

借りた自転車
 僕たちは長い間、顔を見合わせて座ったきりだった。何世紀もの時が過ぎたような気がするほど長い間だった。運転手の顔に浮かんだ笑いは意地悪そうに見えた。チャンキーが大きなため息をついた。
「ふーん、つかまったというわけか。よかろう――哀れなもんだ。」
 彼は言って、封筒を取り出そうとザックの方に身を傾けた。
 運転手は自分の勝利に酔って、僕たちを籠の鳥よろしく閉じ込めたとばかり安心し、僕たちの腕章をはぎ取ることもしなかった。それが間違いだった。というのは、向き直ったチャンキーは封筒ではなく、なんと石灰の缶を手に握っていたのだ。彼が缶を落とす音が聞こえ、次いで信じられないほどの速さで彼の手が石灰をつかんだ。粉が運転手の額に散った。頭の周りには白い煙がもうもうと立ちこめ、視界をさえぎられた運転手は大声を上げ、両手を上げた。
 チャンキーは叫んだ。
「逃げろ!」
 そしてドアをさっと開いた。
 僕もこっちのドアを押し開け、道に飛び出した。後を振り返りもせず道を走った。原っぱの柵を乗り越え、囲みを突き破り、また野原を横切り、険しい土手を川の方へと降りた。
「ちょっと身をかがめていようよ。」
 彼は息を殺して言った。
「この土手のところに隠れていよう。もし、あいつが見つけに来ても、きっと僕らは村と反対方向に行ったと思うだろう。もっとも追いかけてこないと思うけどね。」
 彼はさも愉快そうに笑い出した。僕もつられて、2人とも草の上にお腹を抱えて転げまわるほど大笑いした。
「あれが彼をびっくりさせたところを見たかい?」
 チャンキーが言った。
「原子爆弾みたいにキノコ型に炸裂したんだ。車をすっかりきれいにするには1週間はかかるだろうよ。まさに、ちょうどぼくらを窮地に追い込んだと思ったそのときだったんだからね。」
 僕は答えた。
「彼は喋らなければいいんだけどね。」
 僕らは小1時間ほどその場にいたが、運転手の追ってくる気配はまったくなかった。
「さあ、」
 ついに僕は言った。
「そろそろ出かけようぜ。ああお腹がすいた。」
「えっ、またかい?」
 チャンキーは言い返した。
「だって、さっき食べたばかりじゃないか。」
「卵ひとつとパンひと切れで食事だなんてごめんだ。とにかくもうお茶の時間だ。カークデン村に忍び込んで何か食料を手に入れるというのは危険過ぎるかな?」
「そりゃ、危険だ。」
 と、チャンキーは言った。
「今は川伝いに行って、後でまた通りに出ようよ。」
 彼は肩にザックを担いで壁を這い登った。川の流れは今はまっすぐになって、僕たちはそれにぴったりと沿って行った。人っ子ひとり見かけず、のんびりした行程だった。
 チャンキーが魚を見つけた。太陽が降り注ぐ土手の上に白いものが光っているのを彼が見つけたのだ。近づいてみると、のどに大きな裂かれた傷がある。茶色の斑点を持った銀色の大きな魚だということはわかった。
「マスだ。」
 彼は裂けたのどを指差した。
「どういうことかわかるか?」
「いや、さっぱり。」
「カワウソなんだよ――あの傷跡を見ればわかる。カワウソは贅沢好みの動物でね、獲物をつかまえるとのどだけ食べるんだ。きっと近くに静かな水場があるに違いない。土手にはカワウソが一面、星でも散りばめたようにいるだろう。そして、なんと僕らはここにかすり傷ひとつなくている――さあ、幸運を感謝しなくちゃ。」
 本当に次の角を曲がると、チャンキーの予言したような広い、静かな水場があった。しかし、カワウソの代わりに、古いツイードの服を着、ゴムの長靴をはいた老紳士がいた。彼は、僕らを見ると手を振った。
「わしが魚を釣るのを期待して見に来たんじゃないだろうな。」
 彼は大きな声を出した。
「わしか、わしは何もしておらんよ――まったく、ぜんぜんしてなんかおらん。午後一杯、淵に釣り糸をたらしているが、波ひとつ見ない。日中では早過ぎるということだが、君たちにはわからんだろうが、わしは去年の春には、まったく同じこの時間に300フィートものシャケを釣ったんだ――恐ろしく大きいやつだった――釣竿を折り、足も使って引き上げたんだ。」
 彼は釣り糸を巻きながら岸の方へと歩いてきた。チャンキーは彼にマスのことを話した。
「あっ、それだ。」
 彼は言った。
「今朝わしが通ったときには、土手の上に死んだマスなど1匹だっていなかった。してみると、カワウソのやつ、わしと同じ時に釣りを始めたに違いない――して、やつが幸運をつかんだんだな。君たちはこの辺でキャンプでもしているのかね?」
 僕たちは密行ゲームのことを説明し、どうやって自動車から逃げ出したかを話した。彼は笑って言った。
「おめでとう。うまくやったな。ところで食事は済んだのかね。」
 僕は言った。
「2人とも卵とパンをひと切れ食べたけど、もうだいぶ前のことです。」
「それじゃ、わしと一緒に来て何か食べたらどうだな。わしは橋のたもとに小屋を持っている――ほんの小さなもので、便利な近代的なものではないがな。わしは毎年そこに来て2、3ヶ月ほど釣りを楽しむのだ。」
 彼はカークデン村の1マイル下手の道の脇にある小屋へ野原の小道伝いに案内してくれた。小屋はさっぱりと手入れが行き届いていたが、庭には雑草が生い茂っていた。中には革張りのひじ掛け椅子のある居心地よい居間があり、いたるところに釣り道具が散らばっていた。僕らに楽にするように言うと、彼は台所から冷たいパイと桃の缶詰と湯気の出ているコーヒーカップを3個持ってきた。
「ぶしつけで悪いがな。」
 と、彼は言った。
「これが執事殿の半日なのさ。」
 彼は缶切りを使いながら笑った。
「わしは、君たちのゲームのことを考えてみたが、君たちが欲しがっているまさにそのものをわしが持っているような気がする。メイプルソープはここから約6マイルのところだが――この丘を下ればもうすぐだ。そして、わしの物置にあるのは、なんと自転車というわけさ。わしがここを買った当時からあったんだが、その後一度も使わなかった。ペダルを踏めば30分でメイプルソープだ。どうだい? 自転車に乗っていれば誰も君たちをつかまえることはできまい。」
「でも、ひとつ問題があるんですが、」
 と、チャンキーはパイを口いっぱいにほおばって言った。
「僕たちは帰ってはこられないと思うんです。」
「それなら自転車は肉屋のところに預けておきなさい。わしが取りに行くまで預かってくれるよ。彼にはブリガディアーに借りたと言いなさい。彼には誰のことがちゃんとわかる。」
 あとは、彼は釣りの話をしつづけだった。2人とも涙の出るほど退屈だったが、食事にありつくためには仕方なかった。ついに彼は僕たちを裏庭に連れていくと、物置小屋の錠前をはずした。自転車を手にするまでにはたくさんのがらくたを動かさなければならなかった。チャンキーと僕はそれらを外に投げ出した。
 かつては立派な自転車だったのかもしれないが、今はなんと――両方のタイヤはペシャンコだ。泥よけも後ろのサドルもなくなっていた。車体には赤さびがいっぱいついていた。
「何しろ、最近使っていないのでね。」
 彼は不必要な言い訳を言った。
「後ろに乗る人はペダルの上に立ってもらわなければならんね。しかし、道は下りだから、苦しいことはなかろうよ。とにかく、パンクしないことを祈るよ。」
 奇跡的にパンクはしなかった。僕たちはタイヤにパンパンになるまで空気を入れた。自転車を道に押し出すと、ブリガディアーは僕たちに手を振って別れを告げた。
 彼の小屋が見えなくなるやいなや、チャンキーは止まって言った。
「こんなものの上で命を危険にさらそうというのかい?」
 僕は肩をすくめた。
「もし、彼が言うように丘を下るのなら――」
「ようし、誰が後ろに乗るんだ?」
「何か投げて決めよう。」
 僕が負けた。2人は自転車に乗り、ペダルを踏んだ。まるで殺人的なひどさだった。僕の背骨のいちばんしっぽがサドルチューブの上に乗った。そして、ちょっとした坂道に差しかかるやいなや、チャンキーは僕が役割を果たしていないといって文句を言い、僕の気持ちを傷つける始末だった。僕の顔はチャンキーの背中によっかかり、僕は何も見えなかった。そして一度、彼が警告なしにブレーキをかけたときなど、僕の顔が彼の頭をつきやり前に飛び出しはしないかと思ったほどだ。
 道が川に出ると、土手に腰を下ろしてひと休みした。僕は汗でびしょぬれ、チャンキーはトマトのような顔をしていた。
「4分の1マイルごとに場所を交代すべきだ。」
 僕は言った。
「僕の座っているところに突き出ているあの鉄のかたまりで、僕はメイプルソープにつくまでにびっこになってしまう。」
「だって君はかけで負けたんだから。」
 と、チャンキーは同情なしに言った。
「それに、物を投げて決めようなんて言ったのは君なんだぜ。」
「わかってるよ。だけど――」
「じゃ、こうしよう。いいかい、2人で丘に来るまで自転車を押すんだ。そしてあとはペダルを踏まずに丘を下る。そしてあとはまた自転車を押すんだ。」
 こう決めはしたものの、どっちも動きだそうとはしなかった。
 チャンキーは言った。
「もしあの淵をずっと見張っていたら、カワウソが見られただろうね。」
「それでどうするんだ。君は石膏を持っていないじゃないか。」
「カワウソが見たいんだ。それだけだよ。」
 チャンキーは橋の欄干までぶらぶら歩くと、それにもたれかかった。あたりはまったく静かで、川はここでは広く穏やかだった。
「自転車で行けば、メイプルソープはすぐだ。ちょっと淵の方に行って、道が見つかるかどうか見てこよう。」
 僕たちは2人とも静かに歩いて行った。すると淵が見えてくる前に、チャンキーが手を振った。何にも言わないうちに僕にも音が聞こえた。チャンキーが身を震わせた。どんな大きな魚でもこんな音は出すまいと思われるほど、大きな水のはねる音だった。2度、3度、響いてきた。僕らはそのまま1分以上身動きせずに立っていた。それから、つま先立ちで進むようにとのチャンキーの指示で前に進んだ。
 淵の向こう岸に何かが動いていた。小さな犬ほどの大きさで、厚い先の細った尾と短い足を持った、灰色っぽい茶色のものだった。それがちょっと止まったとき、平たい猫のような頭と、黒い鼻が見えた。それは土手を滑り降りると、再び水の中にもぐりこんだ。しばらくの間、水紋が淵の水面に広がり、鼻が見分けられた。鼻はまた岸の方に動いていった。すると、頭の先だけを水に隠したまま全身を水面に現した。僕はすっかり興奮して叫んだ。
「あそこだ!」
 しかし、もうそこにはいなかった。長い間待ったが、カワウソは現れず、水は静かに暗くよどんでいた。
 僕たちは自転車のところに戻って、車を道に押し出した。
「前のタイヤがパンクしている。」
 僕が見つけた。
「ここを離れるときにはちゃんとしていたんだけどな。」
 チャンキーは、まるで僕がわざと空気を抜いたかのようにいらだたしく言った。
 幸いにしてポンプがあったのでまた空気を詰め込み、橋を横切ってカークデン−メイプルソープ道路へとでてきた。数ヤード先からは道は急勾配で下に向いており、先の方は見えなくなっていた。タイヤに空気を吹き込むと乗りこんだ。たちまち自転車はものすごいスピードで丘を下り始めた。僕の顔はチャンキーの背にうずまり、何も見えなかった。絶え間なく僕たちは自転車の上で飛び上がり、そのたびにサドルが僕の背骨の先端をいじめつけた。しかし、僕は歯を食いしばって死んだようになって自転車にしがみついていた。突然振動が激しくなり、サドルが苦悩に満ちた音を立てた。
 僕は叫んだ。
「後ろの車輪がパンクだ!」
「前もなんだ!」
 チャンキーも叫び返した。
「何で止まらないんだ。おい、ブレーキをかけろ!」
 チャンキーが怒鳴った。
「いっぱいにブレーキをかけてるんだよ、これでも。」
 誰もこんなことは考えてもみなかった。自転車は宙を走り、1ヤードごとにスピードを加えた。木や茂みがぼんやりと混ざり合って、いっしょくたになって後ろに飛んだ。自転車はしばらくすると、道の端をかすめ、車輪が2つとも地面を浮き上がった。僕たちは茂みの中にどさりと投げ出された。
 チャンキーが言った。
「もうずいぶん来たに違いないよ。」
 僕は起き上がると、そっと節々を伸ばした。幸い骨は1本も折れてはいなかった。男の人がひとり、角を回ってトラクターを運転してやってきた。僕たちを見るとエンジンを止めて声をかけた。
「何か事故でもあったのかね。」
 たくさん言うことはあったが、失礼にならないよう2人ともただ
「ええ。」
 と、答えた。
 チャンキーはそのあとで言葉を足した。
「自転車を返しに行っては頂けないでしょうか。僕たち、あの自転車をブリガディアーさんにお借りしたんですが、住所は…」
「ああ、あの人ですか。」
 男の人はトラクターから降りてきた。
「よく知ってますよ。もうこれ以上自転車には乗らないんでしょうが。」
 僕たちが声をそろえてもう必要のないことを強調したところ、彼は自転車を自分の車に積み込んでくれた。
 あとメイプルソープまでの残りの4、5マイルは歩くことにした。村に着いたときには日が暮れようとしていた。小さな村で車道の片側にのみ歩道がついていた。歩道は鉄の鎖で車道から守られ、丘のふもとに抱かれるように店が2、3軒あった。その中に1軒だけ、2階が喫茶室になったパン屋があった。
「さんざん時間を無駄にしたな。」
 僕は言った。
「お茶でも1杯飲むとするか。」
「あの家――サンドホーとかいうあの家――を探さなくてもいいのかい? そこで食事もできるかもしれないよ。」
「この店で聞いてみようよ。」
 2階の喫茶室は客が誰もいなかった。窓に面したテーブルに腰をかけると、ウエイトレスがオレンジジェードとあまりおいしくないケーキとを運んでくれた。地図を広げ翌日の行程を研究しているとチャンキーが叫んだ。
「ウオーリーだ!」
 彼は窓の外をのぞいていた。
 僕はモスリンのカーテンを押しのけた。チャンキーが僕の手を払いのける前に、僕も、自分の隊の仲間3人が道をぶらぶらしているのを目にした。
「やつらの目にとまるなよ。」
 チャンキーが小声で言った。
「ウオーリーとマルコムとティッチ・エバンスだ。隊のキャンプがどこかごく近いところにあるに違いない。」
 3人のスカウトは、喫茶店の前に立ち止まって話をしていた。明らかに入ろうかどうしようかと迷っていた。マルコムがドアに近づいた。
「やってくるぞ。」
 僕はささやいた。
「もし2階に上がってくれば、僕らは袋のネズミだ。」
 チャンキーは地図をたたんだ。2シリング銀貨を取り出すと僕はお皿の下にすべりこませた。
「ここを抜け出さなければ。」
 階段に行きつかないうちに僕はまたチャンキーの腕をとり、彼を隅に引き返させなければならなかった。下では、すでにウエイトレスがマルコムと話しているのが聞こえていた。
「もし、他の2人のスカウトを探しているんだったら、2人とも上にいますよ。」
 ウオーリーの声がした。
「スカウトが2人だって? 誰だろう。」
 彼が階段の方に歩いてくるのがわかった。逃げ道はなかった。

 

 

危機を脱して
 チャンキーと僕は、喫茶店の階段の暗く狭いとっつきに立ち尽くした。ウオーリーが昇ってくる足音が聞こえた。階段は途中で一度曲がっていたので、彼がそこまで昇ってくる間は僕たちの姿は見えないはずだった。しかし、それが何になろう。下の店を横切らなければ外には逃げられないのだ。完全に袋のネズミだった。僕は、チャンキーの腕を握ると暗闇に引きずり込んだ。と、僕の背の壁が少し動いたような気がした。肩越しに振り返ると、はじめてそのときわかった。ドアがあったのだ。
「早く!」
 僕は言った。
「入るんだ!」
 ぐずぐずしている暇はなかった。飛び込むと、僕はドアを静かに閉め、取っ手の下の真鍮の掛け金をしっかりとかけた。その途端、ウオーリーが階段を上まで昇ってきた。一瞬、間をおくと彼は下に向かって叫んだ。
「誰もいないよ。部屋は空っぽだよ。」
 誰かが2階に上がってきたらしく、話し声が聞こえはじめた。ウエイトレスは大きな不平声で、確かにいたはずだとか、自分が知らないうちに逃げ出せるはずはないとか言い張っていたが、実際見当たらないことがわかると、「おっそろしく」びっくりして、「どこへいっちまったのか」気味悪がっていた。
 その間に僕たちは、初めて回りを見渡すことができた。狭い、戸棚のような部屋だった。掃除用具置場に使われているのは明らかで、隅にほうきが2、3本立てかけられており、油の缶とモップが1本置かれていた。そのほかにエナメル塗りのバケツが1個、これはチャンキーが今、椅子代わりに使用していた。ほとんど身動きもとれない狭さだった。日光が小さな窓からぼんやりと差し込んでいた。窓にはすりガラスがはめ込まれ、外は見えなかった。チャンキーがうんざりしたように言った。
「どのくらいの間、この穴ぐらに縮こまっていなきゃなんないんだい。」
「今度は確かに、今まででいちばん危ないぞ。」
「抜け出せないかもしれないな。まあ、我慢して、やつらがあきらめるのを待つより仕方がない。」
 と、僕は言った。
 しかし、はかない望みも、僕がそれを口にするかしないうちに踏みにじられた。というのは、突然ドアの取っ手を誰かが握って揺さぶったのだ。
「鍵がかかってるぜ。」
 ウオーリーの声だった。
 ウエイトレスはすっかりおもしろくなってしまい、叫んだ。
「そんなことあるもんですか。鍵なんかかけやしない。ほれ、ほうき戸棚なんですからね。必要ないんですよ。」
 取っ手がまたガチャガチャやられた。彼女は床を踏み鳴らした。
「友達とやら、ここに入ってんじゃないですか。そうだ。きっとそうですよ。」
「あんたたち、そんなことしたってだめですよ。すぐ戸を開けないと、キャッチポールさんを呼んでくるから。出ておいで。開けなさいったら。」
 僕はささやいた。
「おい、チャンキー、逃げ出さなきゃ。」
「どうやって?」
 チャンキーが答えた。
 ウエイトレスはまだ床を踏み鳴らし、怒って取っ手を回していた。
「窓があるだけだ。」
 チャンキーは窓に駆け寄った。しかし、満身の力を出しても、窓は開かなかった。彼が小声で言った。
「ねじで止めてあるんだ。」
 僕は、彼の腰のナイフを指差した。彼はナイフをドライバー代わりに、やっと窓をこじ開けた。窓はすさまじい音を立てた――と、僕らには思えた――しかし、ウエイトレスやウオーリーたちは、一時引き取ったようだった。窓の外は、15フィートほど下に、雑草が茂った庭があった。チャンキーが足を窓から出し、壁に取り付けられた雨樋にからみついた。途中まで樋づたいに滑り降りたとき、手足が離れ、彼は仰向けに庭に落ちた。無事だった。僕も、細心の注意をもって続いた。僕が降り始めるちょうどそのとき、誰かがドアを叩き、すぐ出てくるようにと要求する男の声が聞こえた。
 僕らはちゅうちょしなかった。庭は丘に向かって傾斜しており、いちばん高いところに木の低い柵が見えた。僕らは稲妻のように柵を乗り越え、丘に沿って喫茶店から、そして村から逃げた。
 しばらくしてから足をゆるめた。なかなか適当な道がなかった。村の入口の方に1本、村の向こうの道に向かって1本、道が走っていたが、まだまだ国道を歩くのは危険だった。
 チャンキーがにやにやしながら言った。
「あの人たちがどのくらい長く、ドアを叩いているか見ものだね。」
「きっと、すぐ攻撃方法を変更するだろう。ウオーリーか誰かが窓から入るために、はしごを取りに行くのが見えるようだ。」
 チャンキーが言った。
「だけど、僕たち、喫茶店に入る前に、味方の家を探しておけばよかったね。反対の方向に来てしまったかもしれない。」
 僕たちは草の上に腰を降ろし、地図を調べた。サンドホーハウスは載っていなかった。しかし、地図によると僕たちは、もう村のはずれまで来ており、しかも、目的地とは反対方向に向かっているのがわかった。朝早くヘザーリー村を出発してから、ひどく、いろいろなことが起こったように思えた。2人とも疲れきっていた。
「いっそのこと、どこかの家で聞いてみようよ。」
 と、僕は提案した。
 まもなく、僕たちは1軒の家の前を通りかかった。ひとりの男が庭を掘り返していた。チャンキーが塀に近より、サンドホーハウスに行く道を尋ねた。
「まったく反対に来ちまったよ、お前さんがた。」
 と、男は答えた。
「戻んなきゃなんねえ。裏道を抜けて本通りを行きな。十字路に着たら左へ曲がってレンガ塀に沿って歩くんだ。間違いっこねえよ。」
 まったくだ。ただ困ったことに、僕たちは彼の言うとおり村まで引き返して国道を歩くことはできないのだ。そこで小道を抜けて道路に出てはきたが、右に曲がらず別の小道に入りこんだ。
「大丈夫だよ。」
 チャンキーは言った。
「もし、その家が本通りを左に曲がったところにあるんなら、僕たちはここを行って、右に曲がればいいんだ。同じことになるさ。きっと、ななめに行くことになるから、時間の節約になるよ。」
 残念なことには、その小道は右に曲がるところがなかった。左に曲がるところばかりで、そっちをのぞいても両側は高いレンガの塀が並んでいて、目的地には通じていなそうだった。チャンキーはへこたれなかった。
 彼は肩越しに声をかけてきた。
「進め、進め、もう、そう遠くはないよ。」
 それから5分も歩いただろうか。僕は、突然道の脇の生垣の向こう側ずっと遠くで、白いものが動いたような気がした。確かめようと土手に登った僕は、あまりの驚きに息が詰まった。僕は叫んだ。
「おい、驚くなよ、あれはぼくらの隊のキャンプじゃないか。テントに見覚えがある。」
 チャンキーも大あわてで僕のところまで登ってきた。僕たちは、向こうの野原に張られた隊のテントを眺めた。誰も姿を見せていなかった。みんなマルコムやウオーリーのように村かどこかへ出かけているに違いなかった。
「話がうますぎるね。」
 チャンキーが言った。
「何か書き置きでも残していかないなんて手はない」
「きっと、僕らをつかまえるんだとばかり、あの喫茶店のまわりに集まってるんだろう。」
 と、僕はくすくす笑った。
「ちょっと見まわってやろう。」
 僕たちは、食料をしまったテントを見つけた。チョコレートを失敬して、お礼の手紙を置いた。チャンキーは、すっかり整頓してある毛布をみんな引きずり出してきた。すばやく広げ、お互いに結び合わせ、鎖状にしてロープにかけた。その間に僕は、ひるがえる旗を降ろし、隊長のリュックサックを旗竿のてっぺんに上げた。自分たちの働きにすっかり満足して、僕たちは野原を横切り、境を攀じ登って外に出た。
「ぼくらが来たんだってことがきっとわかる。」
 チャンキーは笑った。
「ぼくらがこんなに近くにいたんだってことを知ったら、ウオーリーのやつ、きっとものすごくくやしがるぜ。ほら、この車の跡は左へ向かっている。これをつけていけば元のところに戻れるよ。」
 道は、畑のまわりを土手に沿って走っていた。僕たちはチョコレートをかじりながらぶらぶらと歩いた。突然、人声が聞こえてきた。
「誰かが来るぜ。」
 僕はチャンキーにささやいた。チャンキーも人声を聞きつけ足を止めた。
「みんなが帰ってきたんだ。どこへ隠れよう?」
 土手の片側には、乾し草の山があった。チャンキーの提案で、その山の上に登ることになった。上からは前方に畑の中を走る道がよく見渡せた。
 隊長が、ウオーリーやマルコムたちとこちらへやってきた。乾し草の山の上に体を伏せたまま、僕たちはみんなが下を通り過ぎるのを見守った。
 ウオーリーは隊長に向かって、僕たちが喫茶店を逃げ出したことの次第を説明していた。明らかに、彼は雨樋をつたって攀じ登り、窓から入って、ドアの掛け金をはずさなければならなかったらしい。主人はたいへん腹を立てて、それにはウオーリーとマルコムがあやまらなければならなかったとのことだ。
「うまくいった。」
 チャンキーは気の毒そうな顔もしないで言った。
「完全に勝ったな。キャンプに戻ったときのみんなの顔が見たいよ。」
 僕が言った。
「やつら、腰を落ちつけやしないよ。きっと、今度こそ見つけてやろうと、大あわてで引っ返してくるに決まってる。だから、なるべく早くサンドホーハウスに行った方がよさそうだ。さあ行こう。」
 僕たちは畑の中の道を急いだ。まもなく、石段付きの垣根のある家の前にやってきた。庭の向こうに大きな家の屋根と煙突が見えた。
「あっ、あれがサンドホーハウスだ。」
 僕が指差した。しかし、チャンキーは上の空だった。彼は、石段の脇に提げられた木の札を読んでいた。
「猛犬注意。」
 彼は言った。
「犬なんか平気なんだけど、どっちみち、このまま道を歩いていたって、あの家の前には出られるんだ。」
「いや、だめだろうよ。」
 僕は断固として言った。
「班の者のうち半分は僕たちを追ってくるだろう。もう今にも追いつくかもしれないんだ。もし、君がおじけづくんだったら、彼らだってそうだ。とにかく、今のところ犬の姿は見えないんだから、いちばん確実な方法は、この庭を突っ切って家に行くことだ。」
「オーケー。」
 チャンキーは、いやいやながら同意した。彼は、僕に先に行けとばかりに身を引きながら言った。
「だけど、もし何かが後ろから襲ってきても知らないぜ。」
 小走りで庭の中央まで来たときだった。僕の後ろにぴたりとくっついていたチャンキーが突然言った。
「あそこにいる。よかった。」
 ブルドッグが1匹、垣根のかげで、お腹を後ろ足で掻いていた。きっと20ヤードほど向こうだったろう。
 僕が言った。
「ちっとも気にかけてなんかいないという様子で脇を通ろう。」
 しかし、それは容易ではなかった。ひと足ごとに、いぬがあとをつけてきやしないかと、振り返って確かめたくなった。チャンキーが神経質になっているので、僕まで感染したのだ。彼は、今は僕の一足前を歩いており、落ち着かない気持ちが歩き方に現れていた。12ヤードも進まないうちに、僕はすっかり恐ろしくなった。そのとき、チャンキーが振り返って、うめくと、走り出した。後ろを見ると、ブルドッグが立ちあがり、僕たちのあとをつけ始めていた。確かに犬はゆったりと、のんきそうな顔をしてはいたが、とにかく、あとについてくるのだ。
 チャンキーが叫んだ。
「追ってくるぞ!」
 僕は小走りになった。後ろを振り返ると、なんと、やつもゆうゆうと走りはじめた。チャンキーがごくりとつばを飲み込んだのがわかった。僕たちは垣根に向かって、まるで命が危険にさらされているかのように、我先に走った。垣根がこんなに遠く思えたことはなかった。心臓がどきどきしてあまり大きく波打つので、肋骨にぶつかるようだったし、息は切れて、まるでしゃくりあげているようだった。何とかかんとか、チャンキーは垣根を乗り越え、僕は垣根に飛び込み、身をよじってくぐり抜けた。チャンキーは、またあわてた末、土手を転がり落ち、ちょうど通りかかった人の足の間でやっと止まった。
「おっとっとっと。」
 男の人は、ひどく驚いて叫んだ。
「ずいぶんお急ぎのようですな。」
 チャンキーはあわてて立ちあがり、間の悪そうな顔で言った。
「ブルドッグは苦手なんです。」
「ちょっとびっくりしたんですよ。」
 僕もきまりが悪くなって言葉を足した。
「ブルドッグ?」
 男の人は肩を上げた。そしてステッキで野原の方を指し示した。
「あれはブルドッグなんかじゃないですよ。私のミルクの補給員の一員でしてね。」
「え? 何ですって?」
「牛ですよ。あれは絶対乱暴はしません。やれやれ、札をあんたがた見たんですね。もう半年もはずそうはずそうと思いながら、そのままにしておいたもので。ブルドッグは去年の秋に売ってしまったんですよ。やれやれ。」
 彼は大声で笑い出した。振り返ると、垣根の穴から僕たちの「ブルドッグ」が野原の真中で静かに草を食べているのが見えた。まったく今になると、どんな動物だって、あれほど牛らしいのはいそうに思えなかった。男の人はこう尋ねた。
「君たちは、あの川のところで仲間とキャンプしているんではないですか?」
 僕が答えた。
「いいえ、僕たちはハイクの途中なんです。今夜はサンドホーハウスに泊まることになっているんですが、野原を通ったら近道になると思ったので。」
「サンドホーハウスだって、なんだ、それはカーマイケルさんのところですよ。ここから遠くはありませんよ――そうだ、ちょっと寄り道をしませんか? 夕食はまだなんでしょう?」
 僕は頭を振った。
「少しばかり…」
「いや、家にいらっしゃい。私も今帰るところなんです。いっしょにやりましょう。」
「ご親切に。」
 と、チャンキーが言った。
「いや、実のところ、」
 と、男の人は歩きながら続けた。
「息子が、ハイクとかキャンプとかいうと夢中でね。きっと、あなたがたに会いたがると思いましてね。」
 角を曲がると、さっき遠くから眺めた家が目の前に現れた。気持ちよさそうな農家だった。男の人の最後の言葉がピンときたのは、しばらくしてからだった。チャンキーがぴくりと肩を上げ、僕を見た。
 僕も気がついた。
「まさか、お子さんは…」
 しかし、彼は僕をさえぎってしまった。
「あなたがたをお連れすると、さぞ喜ぶでしょう。あまりお客が見えませんのでね。」
 彼は、裏口を開けて呼んだ。
「帰ったよ。お客様をお連れしたよ。」
 胃の中に、なんとも言えない不安定なものを感じながら、彼の後について石を敷き詰めた大きな台所に入った。真中のテーブルの上には食事の用意ができていた。新しい焼き立てのパンとベーコンの匂いがした。ばら色のほほをした女の人がエプロンで手を拭きながら、あいさつにやってきた。
「さあ、どうぞおはいりなさい。」
 笑い顔で言った。
 しかし、僕たちは2人とも、彼女なんか見てはいなかった。僕たちは、彼女の後ろの壁にペグがずらりとかけてあるのをみていた。ペグのひとつには、スカウトハットがぶらさがっていたのだ。
 付近のスカウトはみんな見張っているのだと、ヘザーリー村で僕たちは注意されていた。

 

 

ふさがれた道
「まったく、よき来てくださいましたね。」
 夫人は、フライパンからベーコンを取り出しながら言った。
「うちの子もスカウトなんですよ。」
「おかけ。」
 と、男の人は、自分の妻を振り返って言った。
「2人とも、カーマイケルさんのところに泊まるんだそうだ。何でも、ハイクの途中だとかのことなんで、私は30マイルも道をそれてしまったんじゃないかと、そう言ってたところなんだよ。」
 僕たちは、この人たちの親切な招待を受けてテーブルの前に座らないわけにはいかなかった。しかし、いくらお腹がすいていたとはいえ、目の前にぶらさがったスカウトハットには、僕の食欲もすっかり減退してしまった。ベーコンエッグと大きなパン、それに濃い甘いお茶が並んだ。
 ブリガディアー氏と別れてから、僕たちは何も口にしていなかった。喫茶店でとったお茶は半分で残してきていた。そしてもう8時だった。この人たちの息子が今にも帰ってくるんじゃないかとどきどきしながらも、ベーコンの匂いはお腹のへっていることをいやおうなしに、僕たちに思い出させた。息子は帰ってくれば、すぐにも僕らのことを感づくにきまっていた。
 男の人が言った。
「あれは、今夜はどこに行ってるんだね。」
「プラムステッドさんのところへ、牛乳を持って行ったんですよ。4時に出かけたんですから、もうそろそろ帰るでしょう。お仲間のスカウトが見えてるんで、きっと喜ぶでしょうよ。もう夢中なんですからね。」
 チャンキーは、パンの最後の一口を大急ぎで口に押し込むと言った。
「もう失礼しなくちゃなりません。」
「ほんとうにこんなに遅くなってるとは気がつきませんでした。」
 僕も、時計を見て立ち上がった。
「カーマイケルさんに、8時半にお会いすることになっているんです。」
「いいじゃありませんか。この時計は20分進んでいるんです。そうだったね。」
「ええ、そうですとも。」
 しかし、そうはしていられないのだ。僕たちは、少しせわしなかったが、とにかくすばらしい食事にありついたし、もう、なんとしてでも、少年が帰ってくる前に逃げ出さなければならなかった。男の人は、しばらくは引き止めたがっていたが、やっと僕たちがどうしても行かなければならないことを理解して、サンドホーハウスまでの複雑な道を教えてくれた。僕たちは2人に厚く御礼を言い、明日の朝は何とかして息子さんをお訪ねしましょうと約束した――実現できない約束だとわかってはいたが。
 外はすっかり暗くなっていた。庭を歩いている間、戸口に立って見送ってくれる2人の後ろから、明るい強い光が道を照らしてくれた。僕たちが門まで来るとドアが閉まり、あとはインクを流したような暗闇に包まれた。
「ちょっと失礼だったかもしれない。」
 僕は言った。
「しかしあの場合、仕方がなかったんだ。」
「とにかく、1食得をしたな。」
 チャンキーが答えた。
「いい人だったんだがな。運が悪かった。息子がスカウトだなんてね。おいおい、どうしたんだ。あの人が道を教えてくれたのに、どこへ行こうっていうんだ。もっともサンドホーハウスを探すのもちょっと危険な仕事だが。」
 僕は提案した。
「やめた方がよさそうだな。」
「何だって?」
「というのはだな、チャンキー、息子が帰ってきたらどうすると思う? まあ、僕たちが何者か、すぐ見当をつけるだろう。そうすれば明日の朝、僕たちがサンドホーハウスを出発するときには、彼の隊のやつらがありとあらゆる道を見張っているだろう。きっとそうだ。もし、僕らが今夜ここに泊まれば、やつらの思うつぼにはまることになるんだ。」
「なるほど。」
 チャンキーもうなった。
「さっきの家の庭にはいい納屋があった。あそこを利用しないなんて馬鹿げてるぜ。僕たちがあの庭にいるなんて、誰も考えやしない。」
 チャンキーがどう答えようとしたのかは、いまだにわからない。というのは、ちょうどそのとき、近づいてくる足音が聞こえたのだ。誰かが通りを、一本調子に口笛を吹きながらやってきた。僕はチャンキーの腕をつかむと、大急ぎで門の方に引き返した。庭をこっそりと横切ったが、納屋に入る暇はなかった。口笛が門を入ってきたのだ。吹いている者の姿は見えなかった。暗闇で壁に貼りついたまま僕たちは息を殺した。彼は僕たちから半ヤードと離れていないところを通って戸口の方に行った。彼がドアを開くと、流れ出た光の中に15歳ほどの少年の姿が浮かび上がった。そして戸はまた閉められた。
 納屋の戸の掛け金が見つかった。戸はきしみながら開いた。中には、チャンキーの手のたいまつに、わらが隅に大きな山を作っているのが見えた。戸を閉めようと手を伸ばしたとき、誰かが家から出てきた。光が強く反射し、門の方へ小走りに急ぐ足だけを見分けることができた。
「ほうら、」
 僕はそっと言った。
「友達を起こしに行ったぜ。中に入ろうや。」
 大きな、そびえるような納屋だった。濃い影の中に、屋根の頑丈な材木が黒々としていた。片隅には階段と、その上に小さな屋根裏部屋があり、下はベンチがひとつと材木で埋まっていた。チャンキーは2階で寝ようと言ったが、調べてみると空っぽで、おまけにガラスが1枚割れており、隙間からは星が冷たく見えた。1階の方が気持ちよさそうだった。そこで僕たちはわらを持ち出し、ヤマネの巣のように居心地のよいベッドを作り上げた。靴を脱ぎ横になると、わらをかぶった。外でニワトリの声がし、そして、すっかり静かになった。ネズミが壁の向こうで音を立てたが、そんなことはかまっていられないほど疲れていた。

 庭を歩く足音で目が覚めた。注意深く外を見回し、敵の姿がないと見るや、戸を滑り出て納屋の裏に回った。石壁を攀じ登り、畑をいくつか過ぎると、また丘に戻ってきた。息を切らし、あえぎながら、地図を調べようと腰を下ろした。
「やあ、メイプルソープはもう通りすぎたぜ。ありがたい。」
 チャンキーが言った。
「ここから、どこへ行ったらいいんだ。」
「どっちみち南東に向かわなければ、道を回って。」
 僕はコンパスを地図にあてて答えた。
「今、僕たちは村はずれにいる。だから、地図のこのあたりに違いない。みちはフォーダム村とアイスフィールド村を通っている。たしか味方の家がアイスフィールド村にあったと思うんだが。」
 チャンキーが書き付けを調べ、うなづいた。僕はアイスフィールドまで、だいたい11マイルとの見当をつけた。みちは丘のすそをまわって走っていた。
 まだ7時になっていなかった。朝の空気がひどく冷たかった。残りのオートミールに砂糖とレーズンをまぜて、簡単な食事を済ませた。
 チャンキーは、僕の肩越しに地図をのぞくと言った。
「もし、アイスフィールドに直接向かうとして、丘をまっすぐ突っ切っていけば、フォーダムを通らないんだから、4マイルは得をするんだがな。」
「しかし、つらいよ。」
 僕は言った。
「時間を稼いでも、疲れて、元も子もなくなるさ。」
「そうだとしても安全だよ。僕は、何よりも、大通りは避けるべきじゃないかと思い始めたんだ。もし、僕の地図の読み方が正しいとすれば、ここからアイスフィールドに通じる道は、その間ほとんどはだか山の上を走っている。歩いているときに見つかったら、逃げ場はないよ。」
「まったくだ。」
 僕も同意した。
「しかしだね、まだ食糧の問題がある。残っているのは粉がひと袋だけだ。今だって何か熱いものが飲みたくてたまらないんだ。」
 やがて、チャンキーが村に戻り食糧を買い込む。僕はここで彼を待つことに話が決まった。もし、彼が2時間以内に帰ってこなければ、最悪の事態が起こったものとして、僕はひとりで出発することになった。
「こんな時間に店が開いていればいいんだがな。」
 彼は、立ち上がりながら言った。
「まあ、ベストをつくしてみるよ。」
「あの喫茶店には戻るなよ。」
 僕は、彼の背に呼びかけた。
 彼は30分とたたないうちに、パン、バター、チーズ、ソーセージ、サケの干物、チョコレート、お茶、ミルク、その他を持って帰ってきた。その間に僕は、火を起こし、流れを見つけて水を汲み、やかんにはチャンキー歓迎の音を立たせておいた。僕たちは、道や村から見えない林のかげで、春のまばらな草の上に腰を下ろし、サケを煮て主食とし、すばらしい朝食を楽しんだ。薬のビンに残りのミルクを入れ、食料をザックに詰め込んだ。
「さあ、これで丘で迷ったって、お茶と夕食は心配ないぜ。」
 僕は満足だった。
「胃の中のものを少し消化してから出かけようぜ。」
 僕は火に薪をくべた。まだやっと少しずつ気温が上がりはじめたばかりだった。青っぽい霧が丘を包み、上の方には、ヤギが子どもを連れて草を食べていた。胸に斑点のあるツグミが1羽、枝に止まり、僕たちに呼びかけた。遠くでは、ミヤマガラスが鳴き騒いでいた。
 突然、あたりがけたたましい鳴き声でいっぱいになり、林の一方にミヤマガラスの一群が姿を現した。次から次へと枝の間から飛び立ち、非常に興奮した様子だった。
「どうしたんだろう?」
 騒がしく飛び交う鳥に目をやって、僕は聞いた。
「何かを追いかけているんだ。」
 チャンキーが言った。
「やつらの下の方に、茶色の鳥が1羽いるだろう。あれを襲ってるんだよ。ああ、あれは小鷹だ。」
 僕にも、青い頭と広い縞模様の尾を持った鳥がはっきりと見えた。1匹だって自分だけで鷹に立ち向かう勇気を持たないミヤマガラスは、味方の数を頼りに怒って金切り声を上げながら、敵を突っつき、羽でたたき起こそうと躍起になっていた。しかし、小鷹の方がずっとすばやかった。横にするりと抜けると、たちまち苦もなくミヤマガラスどもの上に舞いあがった。ミヤマガラスはやかましく鳴きながら、巣に戻っていった。小鷹は丘を目指して、空の高みに茶色の点となっていった。
「さあ、」
 チャンキーが手足を伸ばしながら言った。
「出かけようぜ。」
 僕たちは火を踏み消すと、芝を掘り起こして灰を埋めた。道は林を回って、ミヤマガラスの見えた方向に続いていた。大きな巣が20ほど、不安定に木の間に見えた。巣からは絶え間なくしわがれた鳴き声が聞こえ、時々、それに若鳥の甲高い声が混じっていた。
 僕たちは、林の道を終わり、丘のゆるやかな坂道を登りはじめた。道は平らで、歩くのは困難ではなかった。雲はなく、1分ごとに厚さが加わった。丘の頂上にきた。そこからは、長く丘が一列に連なっているのが見えた。丘は約100ヤード向こうで、今は使われていない石切場によって切断されていた。石切場に近づくとチャンキーが言った。
「小鷹がまたいるよ。たぶん、巣をこのあたりに作っているんじゃないかな。」
 鳥は、僕たちのごく近くで、地上30フィートのところを飛びまわっていた。僕たちは静かに立ったまま眺めた。鳥は羽をかすかに動かし、扇形の尾を下げてしばらく空に舞った。ほとんど動かず、空気に浮いているようだった。それから鳥は、羽を半分閉じると、石のように落ちた。草にとどく一瞬前に止まると、残酷な手に力が入った。鳥が再び舞い上がったとき、あまり小さくて僕たちには何かわからなかったが、足に何かがつかまれていた。鳥は、石切場の向こう端まで飛んでいくと、急に姿を隠した。
「あそこに巣があるんだな。」
 チャンキーが言った。
「行ってみよう。」
 僕たちは石切場に降りた。底のエニシダをかきわけて進み、石切場の向こう側をはい上がった。ところが、小鷹のメスが、突然岩の間から現れ叫んだ。キー・リー、キー・リー。メスの小鷹が姿を現し、僕たちの上を飛びはじめた。鳥は急に羽を閉じると、チャンキーの頭の上に舞い降りてきた。チャンキーは、エニシダの茂みに滑り落ち、手を上げて自分の顔をかばった。鳥は怒ったように叫びながら飛び上がり、僕たちがまた岩を登りはじめると、何度も襲いかかってきた。
 巣は狭い岩の上にあった。芝の脇にある貧弱な代物だった。赤い点のある茶色の卵が4つ入っていた。手も触れずに、僕たちは前に進んだ。
 約3時間歩きつづけた。時々立ち止まってはコースを確かめた。ヤギとシギをのぞけば、生き物は僕たち2人だけだった。緑と茶の丘はゆるやかに起伏し、ところどころに草の生えた崩れかけの壁があった。視界は丘にさえぎられ、僕たちはただ黙々と歩いた。この向こうには、僕たちのゴールがあるに違いない。そう思うたびに目の前に現れるのは、同じようにさびしい草の道ばかりだった。
 ついに第100番目の坂を登ると、木の間を走る川と、その向こうに黄色のリボンみたいな道が見えた。左手の遠くには、緑の木の間にアイスフィールドの家並みが灰色に見えていた。
「ああ、いい眺めだ。」
 再び家を見ることができて、ほっとして僕は言った。
「着いたね。」
 チャンキーは疑わしそうに言った。
「安心する前に、あれがほんとうにアイスフィールド村かどうか確かめた方がよさそうだ。まあ、川の脇で一休みしてソーセージでも食べよう。そのあとで味方の家を探そうよ。」
 僕は言った。
「考えてみろよ。もし、これが実際にアイスフィールド村だったら、つまり、僕らは、もう半分旅行を終わったことになるんだ。しかも、2人とも無事にな。」
 半マイル下手に、浅瀬と飛び石とを見つけた。川の向こう岸は森になっており、そこで僕たちはソーセージに大きなパンをほおばった。
 火を消し、跡をすっかり見えなくすると、苔の生えた道を進んだ。やがて本通りに出ると、フォーダムまで右手に7マイルと、消えかかった標識に読み取れた。
「大丈夫、これはアイスフィールド村だ。」
 僕は言った。
「ずいぶん何マイルも得をしたな。」
「おいっ、ジオッフ!」
 チャンキーのただならぬ声に、僕は何事かと本通りの左の小道を見やった。
 少年が4人やってくるところだった。チャンキーの声に気がつくと、その中のひとりが僕たちを指差し叫んだ。
「2人だ!」
 僕たちは道を横切ると、村に向かって丘を走り降りた。家と農場をいくつか走りぬけた。後ろには追ってくる足音が聞こえていた。僕たちは、彼らより30ヤードほど先を走っていた。しかし、長い間丘を歩いていた僕たちが、このままリードを続けることができないのはわかりきっていた。
 後ろの少年たちは、まるで僕たち2人が逃げ出した泥棒でもあるかのように、叫んで追いかけてきた。道が曲がった。そして僕は、チャンキーが走りながらうめくのを聞いた。両側には家が並んでおり、そして道の向こうから羊がゆっくりと歩いてきた。羊の群れは、道幅をいっぱいに占領していた。

 

 

わ    な
 羊をこちらへ追ってくるコリーの鋭く吠える声と、羊の鳴き声が入り混じって、あたりは非常にやかましかった。追ってくる少年たちはその間隔を縮め、どんどん接近してくる。僕たちは羊の群れを通りぬけることもできないし、逃げ足をゆるめることもできない。先に行っていたチャンキーは、残された唯一の方法を実行した。すなわち、いちばん近くの家の門の中へ入っていったのだ。僕も彼に続いた。家の端まで駆け込み、裏の菜園に通じる小道を通ってくると、高い柵があったのでそれを乗り越えた。追っかけてきた少年は誰も、僕たちの不法侵入を真似する勇気を持っていないようだった。追跡してくる気配がない。
 僕たちは、一方は木の柵で、もう一方はレンガの塀で囲まれている細い小路に入りこんでいた。家々の裏庭ももう見えない。僕はずいぶん疲れていたので、壁に背を向けてごろりと横になった。チャンキーが叫んだ。
「おい、そんなことしてる暇はないよ。彼らは庭を通って僕たちの後を追ってこなくても、この道に入りこんだことを知ってるだろうし、両側から缶詰にするつもりかもしれない。ここから逃げ出さなけりゃならないんだぞ!」
 僕は肩越しに親指を突き出しながら言った。
「いちばん早いのは、この塀を越えることだろう。」
「うん、僕たちが逃げられるチャンスはそれだけだ。他人の庭に押し入るなんて好きじゃないしな――。」
 そのとき、あまり遠くないところから、興奮して議論している声が聞こえてきた。僕たちを追跡していた4人の声で、しだいに近づいてくる。チャンキーが息を殺して言った。
「はやく! この上を越えるんだ!」
 反対している暇はない。チャンキーはすでに背中を曲げて、足場を作っていた。彼の背中に立って、僕はようやくのことで塀の最上部をつかんだ。続いてチャンキーがすごい勢いで僕を押し上げたので、片足を塀にかけることに成功した。向こう側の庭に、僕はもんどりうって落ちた。そこは荒地に雑草が生い茂っているようだった。次に、節くれだったりんごの木の幹が、僕が攀じ登ってきたばかりの塀に、根こそぎにされてだらしなく立てかけてあるのが目に入った。走り寄って幹に攀じ登ると、塀越しに向こうを見ることができる。僕はチャンキーに口笛で合図して、革ひもに結びつけたザックを落とした。彼はそれをつかむと、足先をレンガの割れ目にかけ、僕が上に引っ張りあげるのにあわせて攀じ登った。ほんとうにようやくのことだった。チャンキーがやっと上を乗り越え、無事に僕の横に立ったと思ったそのとき、僕たちを追って小路に駈け込んできた少年たちの声が聞こえた。
 僕たちは、雑草が腰の高さまで生い茂っている大きな庭に立っていた。三方はレンガ塀に囲まれ、一方はあまり手入れのしてない潅木の生垣で、その向こうに家があったが、ここからは屋根と煙突しか見えない。庭はかつては菜園に使われていたが、もう何年も手を入れずほったらかしになっているようだった。チャンキーがささやいた。
「九死に一生だったね。さて、ここからどこへ行こうか?」
「塀をもう一度乗り越えて戻る方がいいよ。僕だってこういう不法侵入は好きじゃない。」
「もう5分、彼らに時間をやろう。きっとまた引き返してくる。」
「運がついているなら、夕食に間に合うように、僕たちの味方の家に着かないかな――アイスフィールド荘園、にね。まだ12時だろう。予定よりずっと先に行ってるもんな。」
 僕たちは地面に腰を下ろして待った。あたりは鳥のさえずりと、ブーンという虫の静かなうなりでいっぱいだ。チャンキーがあたりを見まわしながら言った。
「庭師はいないのかな? あの家は何だろう?」
「いやにだだっ広いね。」
「あの潅木の向こうには芝生があって、細い道が家の正面へついていると思うんだ。ねえ、あっちへ行って、出口を探してみないかい?」
「いいさ、何でも一度はやってみることだ。誰かに見つかったら説明すればいいんだし、それにこの庭じゃ花を害すると言われることもないしな。」
 2、3ヤード向こうで青いシジュウカラがさえずっていた。ドクニンジンの幹に止まって、1、2秒体を振り動かしていたかとおもうと地面に舞い降り、小さな羽根を拾い上げると、僕たちが座っているところから右側の方向の塀の方に飛び立った。と、すぐ、今度はもう1羽の青いシジュウカラを連れて舞い戻ってきた。塀の、シジュウカラが入ってきた部分を見るため、僕は腰を上げた。レンガのゆるんだところに穴があり、そこから黄緑の苔でできた巣がのぞいていた。まだ完成していない。2羽のシジュウカラが帰ってきた。巣作りの新しい材料を、すばやい気取った動作で置くと、再び飛び去った。
 しかし、彼らが帰ってくる前に、また別の訪問者が、その半分作りかけの巣にやってきた。太った茶色のスズメが穴に飛んできて、苔をくちばしにくわえて羽ばたいていった。ほどなくシジュウカラが次の材料を持って現れたが、やがてまた一緒に飛んでいった。シジュウカラが見えなくなるやいなや、スズメがまた飛んできて生意気にさえずりまくると、再びくちばしいっぱいの苔を盗むのだ。
 しかし、今度は間に合わなかった。スズメが飛び去る前に帰ってきたシジュウカラは、怒ってそのまわりを羽ばたきながら、鋭い叫び声をあげた。そのうちの1羽――間違いなくオスと思われる方が泥棒スズメに襲いかかった。2羽の鳥は、くちばしでつつきあいながら重なって羽ばたいている。もう1羽のシジュウカラは鳴き騒いでいた。そうするうちに格闘者たちは青と茶と黄のボールが転がるように、お互いに組みついたまま地面へ落ちていった。
 どうなったのか見ようと、僕は駆け寄ったが、もうスズメはおののいているような甲高いさえずりを残して飛び去り、2羽のシジュウカラも塀の向こうに消えていた。そこで、巣を見ようと近づいたとたん、邪魔者が飛び出した。
 僕の後ろから、怒り狂った甲高い犬の吠える声がしたとおもうと、小さい雑種のテリヤが草を切って突進してきた。そして一瞬立ち止まって激しく吠えると、全身を怒りに震わせて、うなりながら歯を剥き出しにして僕に襲いかかった。僕は1歩後ずさりして、犬を脅そうとザックを振り回した。しかし、足がヒルガオのつるに絡まって、どしんと尻餅をついてしまった。僕が転んだのに勇気づけられたテリヤは、前方に飛び込んでザックの中に口を突っ込んでしまった――さあ、それから大奮闘である。
「破かれないようにしろよ!」
 チャンキーは、まるでぼくがそれをどうにでもできるように怒鳴る。彼は走ってくると、
「しーっ、しーっ」
 と、叫びながら犬を追いたてた。しかし効果はない。テリヤはチャンキーをよけてちょっと横に飛びのいただけで、相変わらず僕のまわりを回りながら吠えたてる。一方、僕はザックのひもをしっかり握っていたが、キャンバス布の裂ける音が気味悪く聞こえた。
 どのくらい、この面目ない場面が続いただろう――犬はうなりながら輪を描いておどりかかる。僕は地面にしりもちをついたまま、命の絆のようなザックにしがみついている。そして、チャンキーは犬を追いたてながら、犬の後ろを走りまわり、つかもうと無駄な努力を繰り返している――どのくらいの時間か想像がつかないでいたが、そのときまた別のものでさえぎられた。
「ティガー! ティガー! こっちへおいで! ティガー!」
 少年の叫ぶ声だ。そして潅木の茂みから、9歳くらいの少年が飛び出してきた。彼は僕たちのところへ走ってくると、テリヤの首すじをつかまえた。僕は立ち上がった。ザックは大きく裂けて、そこからソーセージとほとんどからになっている紅茶の包みがのぞいていた。少年はその裂け目を見ながら、困った様子で尋ねた。
「それ、ティガーがやったの?」
「僕たちが悪いんだ。ここに来るつもりじゃなかったから。実のところ、隠れるために君の家の塀を攀じ登ったんだ。そして、もう一度攀じ登って帰ろうとしていたところだったんだよ。」
 少年は犬をつかまえると、僕の名前のテープを声を出して読んだ。
「リッシントン第1隊」
 しばらくして彼は言った。
「ああ、リッシントンなら僕知ってるよ。お父さんが連れていってくれたんだ。君たちはハイキングをしているの?」
 チャンキーはうなづいた。
「僕たちは一種のゲームをやってるのさ。今、アイスフィールド荘園っていうのが見つからなくて困っているんだけど…」
「それなら道路のすぐ下だよ。君たち知らないと思うけど、ここは牧師館。僕のお父さんが牧師で、僕はニコルス、略してニックていうの。ヘビとたくさんのハツカネズミが僕のペットなんだよ。家に入ってみない? それはそうと、その袋をなおすのに、針と糸を持ってこなくちゃ。今、僕のほかに誰もいないんだ。」
「ほんとうに、君の心遣いはありがたく思うよ。だけど僕たち、その荘園にすぐ行きたいんだけど。」
「でも、その袋のままじゃだめだよ。」
 ニックがあまり熱心なので、僕たちは彼のペットを見せてもらうことにした。すでに彼の家の庭にいるのだから、むげに断ることもできないだろう。彼の後に従い、垣根を通って、刈り込んでいない芝生を横切り、雑草の茂った砂利の車道に出た。
 想像した通り、家は大きくてだだっ広く、非常に古いようだった。中でもひとつだけ、他よりさらに古く見え、だらしなく厩や納屋の方まで伸びている、荒れ果てた翼(よく)があった。1階の窓には板が張り巡らされ、屋根がわらは何枚も飛んでいた。
「この端はつぶれちゃってるだろ。今年の夏、取り壊す予定なんだけど…。僕たちの住んでいるところは反対側で、ちゃんと仕切りができているよ。あそこに僕とお兄さんでペットを飼っているんだ。とても楽しいところだよ。」
 彼は入り口を通って、薄暗くほこりっぽい廊下へ僕たちを導いた。その廊下の端は狭くて、敷物もない階段になっていて、段々が暗がりへ伸びていた。
「お父さんが、この階段は危ないから昇ったらいけないって。僕たち約束して、その通り守っているの。屋根が落ちるか何か、ここは危険なところだってさ。」
 扉を開けると大きな部屋だった。明らかに以前は台所になっていたところらしかった。床は敷石になっていて、大きな割れ目の入った煙突が、後方のかつて調理台があったと思われるところにもたせかけてある。壊れた窓には板が張り巡らしてあるので、あたりはほんの薄明かり程度で、道具といえば、前面を金網で張ってある木箱の山だけ。その木箱のひとつにヘビが1匹とぐろを巻いて横たわっていた。3フィート以上の長さがあり、よく飼いならされているようだった。ニックが箱から出して腕に巻きつけると、舌をちょろちょろ出したり入れたりして、まぶたのない目で僕たちを見つめながら満足げにじっとしていた。ニックが言った。
「これ、エセックス州のおばさんの家にいたときにつかまえたんだよ。」
 チャンキーが、ヘビを嫌いながら尋ねた。
「いったい何を食べさせているんだい?」
「虫を見つけたり、時にはカエルを取ってやるよ。そんなに手間はかからないさ。飼える1匹あれば1週間は十分だもの。餌がどうしても見つからなくて困ったときは、シロネズミを1匹やることにしている。シロネズミはいつも家族を増やしているから平気なのさ。これ、持ってみる?」
 しかし、僕たちはその名誉をお断りした。ヘビは細長い、草色の体を静かにニックの肩のあたりまですべらせ、市松模様の腹を見せながら、オレンジ色の斑点のある頭をニックの頬につくくらいにもたげている。
「この1週間ほど目を開けているけど、このヘビ、年寄りでもう長くないらしいの。お父さんがメスだと言ってたから、今度エセックスに行ったら、オスをつかまえて子どもを産ませてみるんだ。ネズミを見てごらん。去年、学校の友達が飼い始めに3匹くれたんだけど、今は30匹くらいいるよ。あまりどんどん繁殖するから、母ねずみと父ねずみを別の箱に入れなきゃならないくらいなんだ。一度、1匹3ペンスで売ったこともあるけど、それほど買い手もないしね。ねえ、僕、針と糸を持ってくるからこれをみててよ。」
 彼はヘビを箱の中に置くと、戸口の方へ走っていった。おりの中で白いぶちのネズミが、わらの間でがさがさ動いていた。後ろ足で立って、ピンク色の鼻を金網からのぞかせながら、僕たちが餌をくれないのかと心待ちにしているのも2、3匹あった。そのにおいといったらすごい。
 後ろを振り向いたら、扉が大きな音を立て、間違いなく、がちりと鍵のかかる音がした。僕は目が回りそうになった。大またで部屋を横切り、取っ手をつかんだ。扉は閉まっている! チャンキーも僕の横に駆けつけ、こぶしで木を叩きつけながら怒鳴った。
「おーい、開けろよ。君はふざけているのかい? 早く戸を開けてくれ!」
 返事に、ニックのあざけるような笑いが、他の側の廊下からうつろに響いてきた。
「君たち、リッシントンのスカウトだろ。僕は君たちのことをみんな知ってるんだ。お兄さんがスカウトで、隊で君たちをつかまえようと見張っていることを教えてくれたのさ。彼はそんなに遠くへ行かないから、10分も待たせやしないよ。その間、好きなだけ怒鳴ったり叩いたりしてるがいいさ。だけど、誰にも聞こえないんだし、出られないんだから、僕がお兄さんを連れてくるまで静かにしていた方がいいんじゃないかな。」
 少年はうれしさに溢れて叫んでいた。そして、もう一度笑うと、家から駆け出していったようだった。チャンキーが怒りっぽい口調で言った。
「僕は戸を蹴ってみる。ジオッフ、君は窓をあたってくれ。あまり時間がないんだよ。」
 僕は窓際へ駆け寄ると、すべり枠を上げた。こわれたガラスの破片が音を立てて床へ落ちた。しかし外から渡してある板は頑丈に止まっていて、僕たち2人が力を合わせて蹴っても押してもびくともせず、さっき扉に挑んだのと同じであった。チャンキーは部屋の中に戻ってくると、絶望したようにあたりを見渡した。
「戸も窓も動きやしない。他に方法があるかい? スカウトでもない少年につかまるなんて! いい罠だな。」
 彼はまた扉のそばへ行って、いろいろやってみたが、結果は、がらんとした家に鈍く響くこだまだけだった。

 

 

2人の黒坊
 チャンキーがドアを叩いたり引っ張ったりしている間、僕は板張りの窓を調べてみた。残念ながら窓は頑丈すぎて、逃げ出すことは不可能だった。
「だめだ。」
 惨めな気持ちで僕は言った。
「とっても外へは出られない。ただ、あの少年の兄さんが帰ってきてドアを開けるのを待って、飛び出せばどうかな? ひとりが犠牲になれば、どっちかが囲いを破ることができるかもしれない。」
「隊の仲間でもなんでも連れてくるがいいさ。どうせ兄さんてのは、さっき僕らを追いかけてきた4人組のひとりだろうからな。こんなことなら、カブの子にでもつかまってやるんだった。」
「よせよ、そんなことを言うの。」
 僕は負けるもんかと思った。
「どっかに出口があるはずだ。えーと、こんなとき、追いつめられた小説の主人公ならどうするかな? 小説やマンガなら、隠し扉が見つかるはずなんだが。」
「そんなこと起こるはずないよ。」
 チャンキーが言った。
「天井は申し分なくしっかりしてるし、床を掘るにはつるはしもなし。壁でも突き破るほか手はあるまいね。鍵のかかったドアと板張りの窓じゃ、とても、どう考えたって…」
「暖炉!!」
 僕は飛びあがって、大きな煙突の下のへこみに駆け寄った。
「煙突を登るか。これを利用しないってことはない。」
 チャンキーの沈んだ顔がたちまちほくそえんだ。
「君、日射病にやられた経験あるかい? ハハー、ぼくら2人がふらふらになって煙突を攀じ登る姿が目に見えるようだ。」
 僕はチャンキーの言葉になんぞ耳を貸さず、炉辺に立って、頭の上で大きな口を開けている煙突を見上げて言った。
「水の子トムの話を読んだことあるかい? 煙突掃除の少年が、名前はトムって言うんだけど、その少年が煙突を通ってある寝室にもぐりこむんだ。だいたい、煙突ってのは、いくつかの部屋に通じてるもんだ。この煙突は太いから僕らでも登れるよ。たぶん、この牧師館ができた頃には、お話のように、少年が登って掃除したんじゃないかな。とすると、登りやすいように鉄の足掛けでもついているかもしれない。ちょっと手伝ってくれよ。ネズミの箱を積み重ねて調べよう。」
 僕たちは、ネズミを他の箱に移して、箱をいくつか空にした。ニックが一所懸命にわけたメスもオスも一緒の箱に入れてしまったから、きっとネズミの数が急に増えるだろう。お返しさ。いちばん上の箱に登ると僕は、頭と肩を煙突の中に突っ込むことができた。煙突は先に行くほど狭くなっていた。
「足掛けがついてるぞ。」
 僕は、下のチャンキーに怒鳴った。
「大丈夫だ、ぐらつかない。」
 僕は、足掛けを握ると体を持ち上げ、次に足を足掛けに乗せた。あとははしごを登るのと同じ要領で簡単だった。
「まったく姿が隠れてしまってる。」
 チャンキーが下で怒鳴った。
「2人ともそこに登ってって隠れることはできないか? やつらが帰ってきたって、煙突をのぞくなんて考えやしないだろう。僕らがいないんで、あわてくさって飛び出していったあとでドアから逃げ出すってのはどうだ。」
「ネズミの箱に気がつくよ。そうだろう?」
 僕も怒鳴り返した。
「とにかく君の言うように、あわてて飛び出していったとしても、またドアに鍵をかけてったらどうするんだ。まあ、上にあがってこいよ。」
 僕はゆっくりと登りはじめた。チャンキーが注意深く下からついてくるのがわかった。足掛けはすすで覆われていたが、強くしっかりしていた。そして煙突はしだいに細く狭くはなったが、僕たちが通るのには十分な太さがあった。ひと足ごとに、すすとレンガのシャワーが下のチャンキーに降り注いだ。彼はむせ返り、息が切れ、あえいだ。さぞつらかっただろう。
 突然足掛けが途絶えた。もう頭の上に足掛けが続いていないようだった。と、手が柵のようなものに触れた。柵の向こう側は溝にでもなっているのか手応えがなかった。チャンキーが下で早く動けと急き立てていた。僕は、柵に手をかけると、最後の足掛けを登った。
「おい、おい、頼むから何とかしてくれ。」
 チャンキーが言った。
「向こう側に降りてみるよ。だけど、足掛けがないんだ。合図するまで、君は待っててくれ。」
 こっちの煙突は前のに比べると、ひどく狭く、レンガがもろかった。僕は、ザックを肩からずり下ろすと、下に投げた。手応えがごく近くであった。足の先でレンガとレンガの間を掘って足場を作り、背中を壁に押し付けて、ゆっくりと、苦心の末、降り始めた。1ヤードと降りないうちに、粗い壁に上着が破けてしまった。
 まだ向こうの煙突の足掛けの上で待っているチャンキーに、僕は叫んだ。
「まだ来るなよ。降りてる最中なんだが、少しずつなんだ。」
 10フィートも下らないうちに足がやわらかなものに触れた。ザックだった。傾斜した柵に引っかかっていた。蹴飛ばすとザックは転がり落ち、急に足の下の方から光がさし込んできた。柵のすぐ下が暖炉になっていたのだ。
 部屋に出るのはひと仕事だった。この暖炉は1階の暖炉よりはるかに小さかったからだ。しかし僕は、火床を持って何とか切り抜けた。ネズミが驚いて羽目板の穴に逃げ込んでいった。
 チャンキーに向かって叫んだ。
「もう来てもいいよ。」
 それはがらんとした2階の一室だった。床には厚くほこりが積もり、ドアは、壊れたちょうつがいにぶら下がっていた。日光が汚れた窓ガラスを通してぼんやりと差し込んでいたが、その光でさえ、真っ暗な煙突から抜け出た僕にはまぶしく感じられた。すぐに、チャンキーの足音が煙突の中に響いてきた。
 僕たちは服をはらいながら、お互いに驚きあきれて見つめあった。2人ともユニフォームは真っ黒になっており、たらいの中ででも揉まなければ、とても元に戻りそうにはなかった。チャンキーは黒人の少年のように見えた。目のまわりだけ白さが残っており、黒い唇から白い歯が光った。僕たちはお腹をよじって笑った。
「まったく、」
 僕は言った。
「君のお母さんだって、君とはわかるまいよ。」
「なーんだ、自分のことを棚に上げて。」
 チャンキーも言った。
「君だって、まるでコールタールでも塗りたくったようだぜ。」
「どうしたもんだろう。」
 少し真剣になって僕は聞いた。
「この家、どっかにお風呂があるかな?」
 しかし、彼が答えないうちに1階でドアの開く音がして、話し声と廊下を走る足音が聞こえてきた。鍵がカチリといった。
「お風呂に入ってる暇はない。」
 僕はそっと言った。
「2分もたてば、ここに探しに来るぜ。」
 チャンキーは窓に駆け寄り、窓を押し開けた。片足を敷居に乗せると言った。
「今回は僕たちの勝ちだ。簡単に飛び降りられるよ。」
 僕はザックをつかんだ。1階の窓のひさしがちょうど格好の踏み台を提供してくれた。まずチャンキーがひさしに降り、腹ばいになって注意深く樋に近づいた。それから顔を庭の方に向けると、ゆっくりと足をひさしから滑り落とし、飛び降りた。僕も後に続いた。こうして2人とも無事庭に降りた。
 僕たちが家の角を曲がろうとするときに、ニックと4人の少年たちが、僕たちを探してドアに姿を現した。ひとりが叫んだ。そして、5人は一団となって駆け出してきた。
 砂利の小道を通って、道路の方へと死に物狂いで走った。門を入ってきた女の人が、僕たちが走りすぎるときに驚いて声をあげ、あとを見送っていた。
 不思議に幸運が続いた。20ヤードも走ると、白い門にはっきりとこう書かれていた。「荘園」。僕たちは車道を駆け登った。追っ手はすぐ後ろまで迫っており、叫んだり、怒鳴ったりしていた。やがて車道は二手に分かれ、一方がレンガ壁に取り付けられた緑色の扉に通じていた。扉は開いていた。2人は駈け込み、僕が後ろ手にドアを閉めた。扉は自動的に鍵がかかるようになっていたんだろう。すぐに外で扉を開けようと空しい努力をしている追っ手の声が聞こえはじめた。そのとき僕らは、すでに庭を横切って、裏口をドンドンと叩いていた。
 のりの利いた白いエプロンと帽子のお手伝いさんがドアを開けた。早く安全なところに着きたいとあせっていた僕たちは、彼女を少々驚かせてしまった。ほとんどなだれ込むような状態で、僕たちは飛び込んだからだ。彼女は鋭い悲鳴を上げると後ずさりした。僕たちは2人とも足をもつらせ、折り重なるように床に倒れた。
 チャンキーは座りなおすと、汚い顔に歯だけ光らせて叫んだ。
「密行ゲーム!」
 しかし、お手伝いさんは気も転倒していた。
 この騒ぎに、何人かの人たちが飛び出してきた。使用人たちに混じって、ご主人のホイットニーさんもおられた。立派な灰色のひげを生やした恰幅のいい60歳くらいの人だった。
 事情が全て説明され、お手伝いさんも気を取り直すと、僕たちは2階の浴室に案内された。いい気持ちで体を流しているうちに、汚いユニフォームは、大きなだぶだぶのズボンにシャツ、上着と取り替えられた。やがて僕たちは、あまり名誉にならない舞台に戻る道化師よろしく、ホイットニー氏のドアを叩いた。羊の肉、ピクルス、ビスケットそれにチーズが用意されていた。
「もう昼時を過ぎてしまったんで、こんなものしかないんだが。」
 と、彼は言った。
「食べながら、冒険談をしてくれないか。」
 村はずれの森でソーセージを食べたのはずいぶん前のような気がした。僕たちはおそろしくお腹をすかせていた。ホイットニーさんは独身で、非常に裕福そうだった。僕たちが煙突登りの話をすると、大笑いだった。
「で、これからどうするね。」
 2人が食事を終えると彼が言った。
「ユニフォームは洗ったから、明日の朝までは乾くまい。だから、今夜はここに泊まらなければならないだろうね。リッシントンは、まあ、だいたい20マイルほど向こうだから、旅は半分終わったというわけだ。もちろん、できることは何でも手を貸すよ。」
「何とか計画を練ってみます。」
 と、チャンキーは答えた。
 ホイットニーさんは理想的な人で、僕たちを2人きりにして、十分計画を立てられるように配慮してくれた。この家には玉突き部屋があり、夕方はそこで過ごし、居間の小さなテーブルで夕食をとった。
「僕の知っている限りでは、」
 と、ホイットニーさんは夕食のときに言った。
「こことリッシントンの間には、もうスカウト隊はないんじゃないか。とすると、君たちは今がいちばんつらいときだな。アイスフィールドの子供たちはかなり、みんな頭がいいから、しかも、今はみんな君たち2人がどこにいるかを知っているわけだから、ここを出発するときに何とかしてつかまえようと考えてるに違いないね。」
 彼はカーテンを閉めようと窓に立って言った。
「来てごらん。私の言った意味がわかるだろう。」
 外は影が長く黒々と伸び、月が平らな芝生と道路の方に曲がっている広い車道と、その両側の潅木を照らしていた。目を凝らしてみると、潅木の下に何か動いているのがわかった。少年がひとりうずくまっていたのだ。興奮した顔が少しのぞいていた。
「まあ、あちこちにあんなのがいると思った方がいいね。」
 と、ホイットニーさんは言った。
「明日出発するんなら、何か手を考えなければ。」
 僕たちは、ちょうどヘザーリー村でしたように、村の人たちが起きる前に朝早く出発するつもりだった。しかし、すっかり寝こんでしまって、目が覚めたのは9時過ぎだった。ユニフォームはすっかり乾き、アイロンがかけられ、ベッドの脇の椅子の上に重ねられてあった。上着の破れは繕ってあった。
 ホイットニーさんは、朝食をほとんど終わっていた。僕たちがお礼を言い始めると、手を振ってそれをとどめ、ベルを鳴らした。すぐにお手伝いさんが、おかゆにベーコンエッグ、コーヒーを持って現れた。
「どうやってうまく脱出したらいいか考えていたんだよ。」
 と、彼は言った。
「うちに来る植木屋がね、ちょうど君たちくらいの年の男の子を持ってるんだ。その少年はスカウトじゃない。さっき、その少年に来てくれるように使いをやってある。彼をスカウトのように作り上げて窓から庭に出し、潅木の中に走りこんでもらう。そうすれば、皆の注意はそちらに向けられて、そのすきに裏口から出られるんじゃないかと思うんだがね。」
「それはすてきですね。」
 チャンキーが言った。
「見張りはまだたくさんいるでしょうか?」
「ひとりも見えないが、注意は重ねた方がいいからね。」
 半時間もすると植木屋の息子がやってきて、おとりになることを快諾してくれた。彼はすでに半袖、半ズボンでやってきたので、ただ僕たちは変装用に台所のちりよけをネッカチーフに見せかけて首のまわりに巻きつけた。見張りのスカウトがちらりと見たときには、彼をスカウトと見間違える可能性は十分あった。
 ホイットニーさんは僕たちを居間に連れてきて、僕たち2人がかげに隠れると出窓を開いた。弱い日光が芝生の上で踊り、潅木の茂みを彩った。コマドリが庭のベンチにとまり、ハトがどこかの木の上で小さく鳴いた。スカウトの気配はなかった。
 ホイットニーさんはうなずいた。
 少年は窓を飛び出し、草原を走り、茂みに飛びこんだ。すべての動作に2秒とはかからなかった。しかし、すぐに反応が現れた。口笛が鋭く響き、足音が入り乱れた。ユニフォーム姿の背の高いスカウトが突然飛び出し、私服の小さな少年が後に続いた。彼らは草原を横切り、潅木の茂みをかきわけて姿を隠した。潅木がざわざわと動き、興奮した声が叫んだ。
「ここだ! つかまえろ。」
「さあ、早く。」
 ホイットニーさんは、僕たちを庭に押し出した。
「左へ曲がるんだ――門がある――すぐわかるよ。」
 僕はもぐもぐと言った。
「ありがとうございました。どうも、いろいろと。」
 そして2人は、つま先立って家の角を曲がり、野菜畑の整然としたうねの間を通ってりんご園に向かって走った。門は丘に向かっていて、まっすぐ先には森が見えた。森に姿が隠れるまで僕たちは走りつづけた。先を走っていたチャンキーが止まると、木の幹に体を持たせかけて言った。
「僕は、あの人の足元にひざまずいてもいいね。」
「まったくだ。」
 あまり走ったので、僕のわき腹はズキズキしていた。
「ホイットニーさんか、いい人だったな。ついてたんだ――彼の家に行けたことはね。」
 チャンキーもうなづいた。
「ちょっと一息入れれば大丈夫。20マイルは今日歩けるよ。一足飛びにリッシントンへ帰るか。」
「そりゃ、乗り物を使わなきゃ無理だよ。」
 僕は答えた。
「それに、たとえスカウトがヒッチハイクしている恐れはないにしたって、今まで使った乗り物はどれもたいして役に立たなかったじゃないか。」
 僕は地図を地面に広げた。
「この道はウエストハッデンに通じてるんだ。小さな村だな、ウエストハッデンってのは。5マイル先だ。その先はハンバーリー村だ。ここには味方がひとりいるはずだ。ハンバーリーには行ったことがあるんだ。この前…」
 チャンキーは聞いていなかった。彼を見ると、大あわてでポケットを探っていた。
「どうしたんだ?」
 僕は聞いた。
「何かなくしたのか?」
「何かなくしたって?」
 彼はうなった。
「ジオッフ、君は信じられないかもしれないが、封筒をなくしちゃったんだ。出発のときにはあった。窓から飛び出すときに、ズボンのポケットに突っ込んだのをたしかに覚えている。窓から出る寸前だった。はっきり覚えてる…ここに来る途中で落としたに違いない。」
 彼は唇をかんで顔をしかめた。
「アイスフィールドのスカウトが見つけるかもしれない。だめだ、引き返そう。」

 

 

そして残りはひとつ
「どっかに落としちゃったんだ。」
 チャンキーの顔は苦悩にゆがんだ。
「何としても取り戻さなきゃ。」
 僕はそう思わなかった。
「あそこのスカウトも、僕らが丘に逃げたのを知って、もう探しはじめている頃だ。引き返せばつかまってしまう。どっちにしろ、君はもう失格したことになるんだ。封筒はほおっておいた方がいいと思うね。とにかく、あいつらが勝つためには僕らの封筒を2つとも手に入れなければならないんだから、いいじゃないか。」
「そりゃそうだ。」
 チャンキーは答えた。
「しかしだよ、それじゃ僕らのチャンスは1回きりになってしまう。それで君がつかまったときのことを考えてみろよ。だめだ、やっぱり探しに戻ろう。そんなに長くはかかりやしない。大丈夫だ。十分気をつけて行ってくる。」
 いやいやながら、僕もうなづいた。1時間待ってチャンキーが戻らない場合には、僕がひとりで進むことになった。彼を励まし送り出すと、僕は木の根元に腰を下ろした。
 森の中は涼しかった。日光の入りこむ余地のないほど木が茂っていたからだ。僕は地図を取り出し、自分の道を検討した。今の位置は、アイスフィールドの東、ちょうど川と大通りの真中あたりだった。次の目的地ウエストハッデン村に行くには、5マイル4分の3の道のりを南に向かって森を抜けても、大通りを越えて野原をまっすぐに横切ってもよい。これだと、約1マイルは助かりそうだ。最初の道をとれば、ほとんど全行程を姿を隠して進むことができるが、ただ川の曲がりくねりに従わねばならない。それに誰だって僕らを追いかけてくるやつなら、僕らがこの道を通るだろうと思っているに決まっている。残るのは2つ目の道だ。これは近道だが、視界の開けた原野では、遠くからでも僕らの姿が見えてしまう。
 決定はチャンキーが戻ってからのことにして、僕は地図をたたみ、ザックと一緒に木の根元に置いた。少し寒くなってきたので、2、3ヤード向こうの木の切れ間にできた日なたの方に移動した。時間はのろのろと過ぎ、日なたにでもいなければとてもたまらなかった。
 森の切れ間は大きな広場になり、一面に草が茂っていた。仰向けにひっくり返ると、僕は青い空に浮かんだ小さな雲を眺めた。日光の暖かさを体いっぱいに感じていた。
 うとうとっとしたらしい。もちろん、まだ危険地帯にいたのだから寝こんでしまったわけではない。とにかく気がつくと、横になって寝ていた。と、僕はごく近くで何かが静かにかすかに動いたのに気がついた。しなやかな、オリーブ色の8インチほどのものが、日だまりに丸くなっていた。じっと静かに息を殺して、僕は見守った。平らな頭が、鮮やかな黒い斑点を散らした体に乗っていた。マムシだった。
 突然、かすかな音が眠った蛇の向こうにある茂みに起こり、小さなハリネズミが姿を現した。マムシはその音を聞かなかったらしい。身動きひとつしなかったからだ。まだ成長しきっていない小さなハリネズミも、ヘビに気づかなかった。ネズミは、食物を探して鼻で地面をかぎまわりながら、ちょこちょこと前に出てきた。そして気づかずに、まったく思いがけず、ヘビの背中に乗ってしまった。ハリネズミは、戸惑ったように一瞬動きを止めた。ヘビが目を覚まし頭をもたげ、シューッという声を出した。
 ネズミは、よろよろっとすると夢中でヘビの背中を刺し、大急ぎで後ずさりし、次いでヘビの背中から滑り落ちた。マムシは体をくねらせ、しっぽを動かすと、オレンジ色の目とちらちらする舌を持った頭を敵の方に伸ばした。ハリネズミは慌てふためいて逃げ、ヘビは一瞬の差でネズミを取り逃がした。
 ハリネズミはすぐに態勢を立て直すと、今度はマムシに立ち向かった。ネズミがヘビの白い首に噛みついたのだ。ヘビは、気が狂ったようにのたうちまわった。しかし、ネズミはまりのように丸くなって、食いついたまま離れようとしなかった。しだいにヘビの身のくねらせは弱く緩慢になった。ハリネズミは、ヘビをくわえたまま後ずさりを始めた。そして、出てきた穴に餌食を持ったまま消えていった。
 僕の後ろで木のざわざわいう音が聞こえ、チャンキーが頭の上に封筒を振りかざしながら走ってくるのが見えた。
「見つかったよ! あの庭の中まで引き返したんだ。家のすぐそばの道に落ちていた。これを見つけないなんて、あそこのスカウトたちも案外間抜けだね。」
「それより、誰にも見つからなかったか?」
「ああ、姿も見なかったよ。僕だってのうのうと帰ってきたわけじゃない。だけど誓って言うけど、ひとりとして見かけなかったぜ。」
 草原に腰を下ろし、チョコレートを食べながら、僕はハリネズミとヘビの話をチャンキーにしてやった。その後、とるべき道を検討した。チャンキーは、多少遠くとも森の道をとることを主張し、僕もあらゆることを考慮の上、彼の意見に同意した。僕たちが再びザックを肩にしたとき、すでに12時を過ぎていた。今日の目的地ハンバーリーまでは約13マイルの道のりだった。ホイットニー氏が、もうこの先にはずっとスカウト隊がないという情報を提供してくれたので、僕たちはウエストハッデンで道に出て、その先は国道沿いに進むことにしていた。
 楽な行程だった。木が厚く僕たちを取り巻き、聞こえるのは鳥と虫の声だけだった。時々、苔のむした通りが十字に交差していた。そのうちの1本がやや他の道より広く、苔が踏まれ、人の通行の激しさを示していた。それは南東、すなわちウエストハッデンの方に通じており、地図によればしばらく行ったところで南に折れ、村に入ることになっていた。
 1時間ほどせっせと歩いた後、食事をとることに決めた。僕は火を起こし、残ったソーセージをいため、チャンキーは水を汲みに川に行った。
 木をぬって歩いていた間、一度として川に会わなかったし、またそれらしき気配もなかったが、それでも僕たちは川が近くにあることを感じていた。はたして、チャンキーは水を持って10分とはたたないうちに戻ってきた。
 あと通過する村はたったひとつ。これを思うと僕たちは2人とも非常に自信が出てきた。
「ウエストハッデンさえうまくやれば。」
 チャンキーが言った。
「あと問題は、リッシントンまで僕らの隊の者に見つからずに行くことだけだ。みんなは隊長と一緒にメイプルソープ付近でキャンプしていることはわかってるんだから、朝早く出発しさえすれば、なに、わけはないさ。」
「まったくのところ。」
 僕もいい気になって相づちを打った。
「これからは、どうも少し退屈になりそうだな。まあ、要するに前に進めばいいんだからね。今までは結構ハラハラ楽しかったけど。」
「ああ、それぞれハラハラするところがあったよね。」
 チャンキーも同感だったらしい。
「ハンバーリーからリッシントンまでどのくらいある?」
「10マイルそこそこだと思うよ。」
 あまり地図に熱中していたので、火にかけたダンパーをすっかり忘れていた。気がついたときには、すでに真っ黒になっていた。
「さあ、出発しようぜ。」
 残り火を消しながらチャンキーが言った。
「家が恋しくなりはじめたよ。楽しい我が家が呼んでいる、か。」
 僕たちは、火を起こしたところ一面に水をまき、火がすっかり消えたのを確かめると灰をかき散らし、地面をすっかり元通りにきれいに整理した。あたりには枯葉と枯枝が散らばり、すぐにも火事になる条件がそろっていたのだ。
 半マイルも歩くと木がまばらになり、森は終わった。その先は、時々僕らの背の高さもあるような大きな藪をわけて進まなければならなかった。僕が先頭に立って、のこのこと草を分けて進んだ。突然藪が切れ、道が広場に出た。足元に少年がひとりうずくまっているのに気がつかなかった僕は、その少年の上に折り重なるように倒れた。
 チャンキーが叫ぶので、座りなおし顔を上げると、チャンキーの顔が驚きにゆがんでいた。彼は後ろを向くと、今来た道を走り去った。
 少年を見ると、彼は四つん這いになってナイフを探していた。木を削っていたのに、僕が倒れ掛かったので、手にしていたナイフをどこかに飛ばしてしまったらしい。カーキ色の服に灰色の線の入った青いネッカチーフをしていた。何と、スカウトだったのだ。
 あわてて起き上がると、僕ははじめて広場に白いテントがいくつか張ってあり、煙が昇っていることに気づいた。竿にはユニオンジャックの旗が風がないため、だらりと下がっていた。そのとたん彼はナイフを見つけ、顔を上げた。
 彼の顔が突然変わり、口が大きく開いた。次いで彼は、僕の腕章を取ろうと飛びかかってきた。僕が身をかわし、肩透かしを食わせたので彼は藪の方へ転がっていった。もうぐずぐずしている暇はなかった。僕はチャンキーを追って、彼が木を分けて進む音のするほうへと全速力で走った。後ろでは、少年が叫び声をあげながらテントへ駆け寄っていった。振り向くと、隊長がいちばん近くのテントから現れ、何か大声で彼に答えているのがちらっと見えた。他にスカウトたちが、実にたくさん、まるで魔法のように次から次へと姿を現し、手を振り、わめきながら広場を突っ切ってこちらに走ってきた。もちろん後でわかったのだが、朝のうちにアイスフィールドのスカウトが、僕らがこの道を通ってやってくるかもしれないと、自転車で伝えに来たのだそうだ。僕がつまずいたあの少年は、僕たちを見張っていたのだった。
 僕は森に走りこみ、待っていたチャンキーに追いついた。
「どっちに行こう?」
 彼が待ち構えていた。
「道は避けるんだ。木を分けて進むんだ。」
 僕は息を切らして言った。
「やつらには勝手に走りまわらせることにしよう。森の中でやつらをまいてしまわなければ。」
 2人は一団になって走った。折れた枝につまずきながら、木の向こう側に、またこちらがわにと道をジグザグにとり、そしてあるときには藪の中に走りこんだ。その間、たえず後ろでは口笛が、足音が、そして叫び声が入り乱れて続いていた。まるで英国中のスカウトがみんな追いかけてくるようだった。突然猟犬に臭いをかぎつけられ、猛烈な勢いで追われる狐の気持ちはこんなものだろうと思い合った。興奮と絶望、闘志と恐れとが気持ちの中でごっちゃに混ざっていた。
 あの午後ほど走りぬいたことはないし、今後もあるまいと思う。息は途絶え、ひきつり、心臓は波打ち、冷たい汗が目に流れ込んだ。暗い木の間をぬってひどく長い間走った。鳥が驚いてばたばたと飛び立ち、道をふさぐ小さな枝はことごとくへし折られた。ひざはすりむけ、はね返った小枝で顔はびしびしとはたかれた。
 チャンキーは1ヤードほど先を足を引きずるようにして走っていた。追っ手の声は少しかすかになっていた。彼は立ち止まると、体を幹にもたせかけ、息をついで言った。
「どうしよう。いつまでも走っているわけには行かないぜ。このままじゃつかまるのも時間の問題だ。」
「隠れたほうがよさそうだ。」
 僕は答えた。
「藪に隠れよう。この深い森の中だから、2、3年じゃ探し出せやしないだろうよ。」
 チャンキーの指さすほうを見ると、潅木の茂みが格好の隠れ場所を提供していた。
「じゃ、あそこにするか。」
「オーケー。」
 2人は茂みに駆け寄った。しかし、すばらしく思われた計画も失敗だった。チャンキーが避難場所にもぐりこもうと四つんばいになった、まさにそのときだった。僕たちの後ろでトキの声が聞こえ、無帽の砂糖大根のような顔をした背の高いスカウトがひとり姿を現した。僕たちは飛び上がり、むやみやたらに走り出した。チャンキーの苦しそうな息遣いが聞こえ、ひと足ごとに進むのが苦痛になった。曲がっても回り道をしても追いかけてくるひょろ長いスカウトを振り切ることができなかった。追っ手の声は右にも左にも聞こえていたが、姿は見えなかった。見えるのはただ、この僕の足元に追いすがるスカウトひとりきりだった。僕たちは、ただもう、このスカウトから逃げたいばかりだった。
 しかし、これもうまくいかなかった。というのは、突然森が終わり、広い穏やかな川の脇を走る大きな道路に出たのだ。チャンキーが一瞬ひるむのがわかった。と、右手はるかかなたに、2人のスカウトが森から出てくるのが見えた。選ぶまでのこともなく、チャンキーは左に向かった。ところが、こちらからも走ってくる足音が聞こえ、角を曲がってもうひとりのスカウトがやってきたではないか。
 行く手は川にさえぎられ、三方からはスカウトが追ってきた。逃げ道はなかった。チャンキーは、あいまいな身振りをすると森のほうに引き返した。のっぽのスカウトが彼に飛びかかってきた。チャンキーは身をかわし、一瞬うまくすりぬけたかに見えたとき。泥に足をとられ横転してしまった。すぐにのっぽのスカウトが彼の上に馬乗りになった。2人は足をばたつかせ、または腕を振り上げながら上になったり下になったりしていた。そのうちに、のっぽのスカウトが高々と自分の手を上げた。チャンキーの腕章を握っていた。
「つかまえた! つかまえたぞ!」
 彼は叫んだ。
「君は終わりだ! つかまったんだ!」
 しゃべると長いが、これはすべて一瞬のうちに起こったのだった。右手はるかに見えたスカウトもだいぶ近づき、他にもスカウトたちが森から転がるように飛び出してきた。チャンキーにかまってる暇はなかった。何とかして自分が逃げなければならないのだ。そしてどちらを向いてもスカウトが刻々と近づいてきていた。

 

 

ぬれねずみ
 チャンキーをつかまえたスカウトは、直ちに起き直ると、今度は僕を追いかけてきた。僕たちの間は数ヤードと離れていなかった。背水の陣に立った僕は、今更のように勇気の湧くのを覚えた。僕はザックを肩からずり落とすと、追っ手をめがけて投げつけた。彼は自分の顔に向かって飛んでくるザックをよけるため、一瞬立ち止まらなければならなかった。右手近くにはスカウトが2人迫ってきており、左手にはまた大勢のスカウトが押し寄せてきていた。彼方の森では追っ手が木を踏み分ける音が響いていた。残る道は川だけだった。
 僕は必死の思いでランニングジャンプをした結果、ひどく水をはねながら、それでも岸から10フィートのところまで飛ぶことができた。おそろしく冷たい水が、頭まですっぽりと僕を包んだ。深さはちょうど僕の身の丈ほどだった。夢中で川底を蹴り、水を掻き分け、水面に浮かび上がった。
 およそ川の真中ほどのところだった。岸ではスカウトたちが僕を指差し、飛び込んで僕をつかまえろと、お互いに叫びあっていた。しかし、誰も僕に続くだけの勇気をもち合わせていないようだった。チャンキーが手を振り、飛び上がり、何かを僕に向かって叫んでいるのが見えたが、何を言っているのか聞き取れなかった。僕は背を向けると、反対岸に向かって泳ぎ始めた。
 スカウトのうちのひとりがユニフォームを脱ぎだした。もうこれ以上ぐずぐずすることはなかった。僕は森に駆け込んだ。靴は水を飲みガボガボ音を立て、服からはしずくがたれていた。チャンキーが一度封筒をなくしてから、僕は、自分の封筒は必ず上着の内ポケットに入れることにしていた。さわってみるとすっかり濡れてしまってはいたが、ちゃんとポケットに入っていた。後は何も考えずに走った。
 走ったことが水の冷たさを吹き飛ばしてくれた。後ろに聞こえたスカウトたちの声はしだいにかすかになり、追ってくる気配は感じられなかった。木をぬっておよそ20分くらい走ったと思う。森が終わり、古い石塀に出くわした。向こう側は耕された畑で、木の茂みに灰色の気持ちよさそうな農家が見えた。
 僕は畑の隅を回り、もうひとつの塀を攀じ登り、羊が数匹遊んでいる牧場を横切った。もちろん濡れたユニフォームをすっかり乾かすのは不可能としても、せめて気持ちのよくなるまで乾かす間、温かいわらのベッドを提供してくれる納屋でもありそうなものだと、ぼんやり考えていた。ザックは投げてしまったので、着替えも食料もなかった。残っているのは、この濡れた服だけだったが、何とかしてリッシントンに戻り、明日午後6時までに封筒をポストに投げ込まなければならないのだ。
 僕は門を通り、庭に入りこんだ。人影はまったくなく、建物のひとつから聞こえてくる手桶のぶつかる音だけが誰かのいることを伝えていた。家の後に建っている大きな納屋を選んで僕は戸を開けた。
 突然、たけり狂う犬の吠え声が襲いかかってきた。硬い毛のテリヤが僕に飛びついてきた。足元には小さな太った子犬が数匹まとわりついていた。僕はあわてて、また戸を閉めた。中ではまだ、犬が戸に飛びつき、狂ったように吠えていた。
 袖をまくり上げバケツを下げた男の人が、何事か起こったのかと馬屋から出てきた。僕はよほど哀れな姿をしていたと見える。というのは、男の人は一瞬立ち止まると、まじまじと僕を見つめたからだ。
 恥ずかしくって僕は言った。
「すみません。すっかり犬を驚かしてしまって。」
「なに、そいつはちっともかまわんが、」
 彼は答えた。
「どうしなすった。池に落ちでもしたんかね。」
 川はそこからかなり遠かったので、僕が川に落ちたということは思いつかなかったらしい。事実をわからせるためには、複雑な説明を要するので、僕は彼の言葉をあえて訂正しないでおいた。
「単独ハイクをしてたんですけど、荷物もなくしてしまって、できたらここで服を乾かしたいと思ったんです。ハンバーリーまで行くところなんです。」
「さあてと、早いとこ乾いた服に着替えんと、肺炎になってリッシントン病院行きだ。納屋はだめだが、まあ、家に来な。家のがうまいことやってくれるさ。」
 家の人が2人ともあまり不審がらなかったのは幸いだった。10分後には、僕の濡れたユニフォームは台所の針金にかけられ、僕は、古いコーデュロイのズボンに灰色のフランネルの上着、とてつもなく大きな寝室用スリッパといういでたちで椅子に収まっていた。ユニフォームが乾く間に、おばさんは熱いココアと気前よくバターを塗った大きなパン、それに手製のケーキを用意してくれた。彼女は、僕を気持ちよくさせようとあらゆる努力を払ったあと、大きな猫を僕の相手に残すと仕事に外へ出ていていった。
 借りた服が具合よくないので、自分のユニフォームが乾いたどうかを見に立ちあがったときだった。誰かがすごい勢いでドアをノックしたのだ。誰もノックに応える人はいなかった。3回目にノックが聞こえたとき、僕は何とかしなければと思った。だぶだぶの服でまるでかかしのような姿のままドアを開けるのはいやだったので、窓を開けて外をのぞいた。
 はっとして、僕はまた窓を閉めようかと思った。ノックしていたのはスカウトユニフォームを着た小さな少年だったのだ。そして僕はもう、彼に見られてしまった。
「あの、」
 と、少年は言った。
「教えてもらいたいんだけど。」
 僕は少しぶっきらぼうに言った。
「何を?」
「あの、僕たち、僕の隊のことだけど、ゲームをしてるんです。川の向こうにキャンプしてるんですけど。」
 彼はドアを離れ、窓の下に来て立った。
「それで、スカウトを2人追いかけていたんだけど、ひとりはつかまえて、もうひとりは川に飛び込んで逃げちゃったんです。」
 僕は顔が赤くなるのがわかった。しかし、まだ僕が見破られていないことは確かだった。
 僕は重々しく言った。
「そいつ、溺れちゃったのと違うかい?」
「だけど、岸を這い上がっていくのが見えたんです。服は着たまんまだったんで、森を通って逃げちゃったんです。もちろん、僕たちだって橋を渡って…」
「僕はスカウトというのは、あらゆることに備えているもんだと思っていたよ。」
 と、僕は少年をさえぎって言った。
「なぜ君たちは、そいつを追って川に飛び込まなかったんだい?」
「ああ、僕たちやったんですよ。あの、僕たちのうちのひとりだけなんですけど飛び込んだんです。だけど、困ったことに、服を脱いで川に飛び込んだんです。そしたら川の向こう岸は松葉でいっぱいで、その人、靴をはいてなかったでしょ。歩けなかったんです。こっち側から投げたんだけど、片方は川に落ちて流されちゃったし、もう一方はイラクサの中に落ちたんで、シャツを着てなかったもんでとてももぐっていけなかったんです。
「そうだったね。服を脱いで川に飛び込んだんだからな。ははあ、気の毒に。」
 少年は真っ赤になった。
「それで、僕たちが橋から回っていったら、もうそのやつ、あの、僕たちが追いかけてる相手のことなんですけど、姿を隠しちゃって、僕たち今、みんなで探しているとこなんです。あのね、ゲームでね、そいつをつかまえなきゃならないんだ。」
「ああ、ゲームなのか。」
 僕は試すように聞いてみた。
「それで、僕にどうしろって言うんだい?」
「あのう、そいつがこっちに来たんだとすると、姿でも、あなたが見たんじゃないかと思って、まだ遠くに行くはずはないんです。服はずぶぬれのはずなんだから。」
「畑を通ってやってくれば、僕が気がつかないはずはない。」
 僕は冷静に答えた。
「だけど実際のところ、誰もこなかったぜ。まだ森の中にいるんじゃないか。」
「そうですよ。僕はそう言ったんだ。だけど、ヒツグンボツトン――あの、隊長のことをこう呼んでるんです――ヒツグンボツトンが、僕にここに来て聞いてみろと言ったもんで。でも、あなたが見なかったなら、あいつ、この道を行ったはずはない。もし通れば、きっとあなたが気がつきますよね。」
 僕はうなずいた。もうこの会話を切り上げたくなって僕は言った。
「もちろん気がつくさ。僕だったら森に戻るね。ヒツグンボツトン君に、きっと木に登ったか、茂みにもぐりこんでいるんだろうと言ってやりたまえ。」
 少年はにこっと笑った。
「僕はそう言ったんだ。とにかく、ヒツグンボツトンに、こっちには来なかったと報告します。いろいろありがとう。僕、もう行きます。」
 僕は窓を閉めて、彼が畑を通って行くのを見送った。この家の主人の農夫かおばさんに会って、また何か言うのではないかと気が気ではなかった。幸いなことに、少年は誰にも会わずに牧場に着き、森に向かって走って行った。僕はほくそえみながら炉辺に戻った。猫がおめでとうでも言いたいのか、僕の足に体をすりつけてきた。
 服はすっかり乾き、ほっとして、僕はまたユニフォームを身につけた。封筒も乾き、水ではがれた封もまたしっかりと閉じられていた。
 おばさんが野菜畑で働いているのをみつけたので、僕は心からお礼を言った。
「なに、そんなことなんでもないことだ。」
 彼女は答えた。
「だけど、確かに服は乾きましたかね?」
「ええ、すっかり。どうもありがとうございました。もう出かけなければならないんです。ハンバーリーに用事があるもので。」
「ああ、家の人がそんなことを言ってましたっけ。もし、乳を搾ってしまうまで、あんた、待ってられるんなら、車で送ってもらったらどうだね?」
 僕は答えた。
「ありがとうございます。けど、これ以上ご迷惑は――」
「なんの、迷惑でなんかあるもんかね。あの人、自分でもそこに行く用事があるんだからね。豚肉を取りにいかなくちゃならんのですよ。台所で待ってなさいよ。あの人、お茶がすんだら連れてってくれますからね。ハンバーリーまで8マイル以上あるんだから、あんただって歩くのはたいへんでしょう。」
 僕だって歩きたくはなかった。6時近くで太陽も沈みかけていたし、少し寒くなってきていた。台所の炉辺と、友達になったぶち猫のところに戻るのはうれしかった。
 ほどなく、おばさんがお茶の用意に戻ってきた。僕はテーブルの用意を手伝った。軽い食事をとったにすぎない僕は、彼女が並べた大きなご馳走の皿を公平に分けるのに苦労した。が、僕は、精一杯公平にやってのけたつもりだ。やっと主人が腰を上げて、車の用意に外に出たのがもう暮れ方だった。
 車は、まだほとんど新しいジャガーだった。しかし座席の部分はもう大分痛んでおり、愉快なドライブより、むしろマーケットと家の往復に使用されているらしかった。が、とにかく、そのジャガーは鳥の如く飛び、15分後にはハンバーリーに到着した。
「どこで降りたいかね?」
 こう聞かれたとき、僕ははたと困ってしまった。密行ゲーム最後の夜、食事と寝床を提供してくれる味方の名前をまったく知らなかったのだ。村のどのあたりに味方がいるかさえわからなかった。4人の味方の名簿を持っていたのはチャンキーで、僕はただ、ハンバーリーにひとりいるということを聞いていたにすぎなかった。そして名簿は、今はつかまってしまったチャンキーのポケットにあるのだ。ここに思い至ったとき、それはひどいショックとなって僕を襲った。今夜は寝場所がないのかもしれない。
「郵便局で結構です。」
 あわてて僕は言った。彼が疑るのが怖かった。
「そこからは自分で道を探します。」
「いや、あんた、場所を教えてくれさえすれば、ドアの前まで連れてってやるよ。」
「いえ、ほんとにいいんです――ほんとに。」
 僕は一所懸命に断った。
「実はちょっと買い物もしたいものですから。」
「こんな時間に店が開いてなんかいるもんかね。」
 と、彼は言った。
「おや、そうでもないらしい。ほら、あの店はまだ明かりがついているね。どうやら何でも屋らしいぞ。あんた、あそこで降りたらどうかね。」
「どうも、」
 僕はほっとして言った。
「ありがとうございました。」
 僕は通路に飛び降り、もう一度彼の親切にお礼を言ったが、彼は僕をさえぎり、簡単に手を振って帰って行った。僕はしばらく車の尾燈が闇に吸い込まれてしまうまで見送っていた。
 店ではソーセージとチョコレート、それにオレンジジュースを買った。また外に出てきたときには、日はとっぷり暮れており、僕はあてもなく道を歩き始めた。風はただ冷たく、カーテンを通して漏れる家の明かりは、僕をたまらなく淋しくさせた。喫茶店からピアノの音が高く聞こえ、バスの停留所では女の子が2人、静かに話し合っていた。しばらくすると十字路に出た。立て札によって、ウエストハッデンは右手8.25マイルのところ、左の道はハンバーリー駅およびイーストハッデンに通じ、リッシントンはこのまままっすぐ先、9.5マイルのところにあることがわかった。
 ところで、これからどうすべきか、僕はしばらく考えねばならなかった。あたりに人の住んでいる気配はまったくなく、僕が乗ってきた車を見送ってから、車というものには1台だってお目にかからなかった。夜ひとりでリッシントンまで歩いていくのも気が進まないし、外套も余分の服もないので、寒くて野宿はできそうもない。納屋でもありそうな農家が見つかるまでとにかく歩くことにしようか。そう考えて、まだ決めかねているときだった。近くの駅を鋭い汽笛を鳴らしながら急行列車が通りすぎる音が響いてきた。いい考えが浮かんだ。ゲームの規則でバスや汽車に乗ることは禁止されていたが、駅の待合室で寝るのは差し支えなかろう。もしかするとストーブもあるかもしれない。そう思って僕は、左手の道を駅へと急いだ。
 駅は最初の角を曲がったところにあった。ホームの明かりがあたりの闇に暖かく輝き入り口近くには明かりのともった窓が見えた。
 階段を上って出札所まで行ってみたが閉まっており、誰もいなかった。がらんとした構内を歩いていると、明かりのついた部屋のドアに「待合室」とあった。ドアを開けたとき、遠くの村で時計が8時を報せる音が聞こえてきた。
 と、そのときである。誰かが走ってくる足音がした。開いたドアから流れ出る光の中に立ったまま、僕は振り向いてみた。構内の明かりは、黄色の光の輪を自分たちの足元に落としているだけで、あとは暗闇に取り残されていた。ずっと向こうから少年がひとり走ってくるのがわかった。彼が光の輪の下を通るとき、かぶっているスカウトハットが黒いシルエットになって浮かび上がった。
 僕は待合室を出て、ロビーを通り、道に通じる階段を駆け下りた。少年は何か叫んでいたが、プラットホームから響いてくるエンジンの音にかき消され、言葉は聞き取れなかった。一度に3段ずつ階段を飛び降りていたとき、彼は出札所まで迫り、彼の足音がコンクリートの床に反響していた。
 僕はほんの少ししかリードしていなかった。一旦外に出てしまえば闇に紛れ込むこともできるが、あまりあわてた結果、最後の1段でつまずいてしまった。態勢を立て直すことができず、僕はそのまま道路に転がり落ちた。
「リッシントンまで9.5マイル」と書かれた立て札が、頭に浮かんだ。まるで僕をからかっているようだった。追っ手はもう階段を駆け降りてきて、僕が立ちあがる前に、僕の前に立ちふさがった。

 

 

小   船
 もう、このスカウトから僕の逃れるすべはなかった。勝利を目の前にしてつかまってしまったのだ。本能的に僕は、腕章を巻いた腕が彼から遠くなるように身をよじった。やすやすと腕章をとらせるようなことはしまいと決心していた。
 だが、突然僕は、スカウトが一向に腕章をもぎ取ろうとしないことに気がついた。もう一度身をよじり、スカウトの顔を眺めた。薄明かりの中に笑いをかみ殺している顔が見えた。思わず僕は安堵の声を漏らすと立ちあがった。チャンキーだったのだ。
 いくぶん気がとがめるような笑いを見せて、彼は、
「驚かしてごめんよ。」
 と言った。
「しかし傑作だったぜ、君の走る様子は。僕はちゃんと声をかけたんだよ。だけど機械の音で消されちゃったんだな。君、追いかけられたと思ったんだろう。僕だって追いかけられたときはびっくりしたからな。僕の場合、そのまま川に飛びこんで逃げるべきだったんだけど――」
「そんな暇なかったんじゃないか。」
 僕は彼をさえぎった。
「君が悪いんじゃないさ。だからいいわけなんかするなよ。しかし、こんなところで何をしているんだ?」
「やつらとキャンプするのはいやだからな。あれから僕は、やつらのテントに連れていかれたんだ。お茶をご馳走してくれたけどひどいもんさ。そしたら隊長が、ここから8時20分のリッシントン行きの汽車が出ると言うんで、それに乗ることにしたんだ。ハンバーリーを通ってきたんだけど、あまり早く着きすぎちゃって、村で食事をしてからあとの30分というもの、所在無くてホームをはしからはしまでぶらぶら行ったり来たりしていたんだ。すると君が待合室のドアの前に立っているじゃないか。はじめは確かに君だとは確信が持てなかったけど、駆け寄ってみると、やっぱりそうだろう。ところが君は逃げ出した。大声で呼んだんだが聞こえなかったらしい。まあ、それはとにかくとして、いったいここで何をしてるんだい? 汽車は使っちゃいけないんだぜ。」
「知ってるよ。」
 僕は言った。
「待合室に泊まろうかと思ってたんだ。」
「泊まる? どうして? 村に味方の家があるじゃないか。おいしいご飯にあったかい寝床、きっと待ってるぜ。」
 チャンキーは上着のポケットに手を入れ、味方の家のリストを取り出そうとした。しかし僕は首を振った。
「いや、チャンキー、公明正大にいこう。君はつかまった。リストも君と一緒につかまったんだ。こんなにして2人が会えたのだって、まったく偶然にすぎないんだから、僕に関する限り、もうそのリストは見ないほうがいいと思うんだ。」
「まあいいさ。」
 チャンキーは舌打ちして言った。
「だけど、なぜ泊まったりするんだい? あと家まで10マイルしかないんだよ。歩かないのか?」
「暗いし、それに――」
「何言ってる。すぐ月が昇るよ。すごいチャンスじゃないか。真夜中にだよ、君がリッシントンに入り込んで封筒をポストに投げ込む。誰が気がついてつかまえにくるかって言うんだ。これこそ天の助けだよ。」
 そのとき、汽車の汽笛が鋭く響いてきた。
「ああ、あの汽車だ。」
 と、チャンキーは言った。
「君は歩くんだろ? また明日な。うまくやれよ。」
 彼はきびすを返すと、階段を駆け上がっていった。改札口で立ち止まり手を振ると、彼は駅に吸い込まれてしまった。僕は彼の消えた方向を見つめたまま、しばらく暗闇に立っていた。明るく楽しげに輝いた汽車の窓が、しだいにスピードを増して走り去った。もう一度汽笛が闇を振るわせると、汽車の振動はそのまま遠くなっていった。僕は十字路のほうを振り返った。
 家まで歩いていくことを考えてなかった僕も、チャンキーの言い分に一理あることを認めないわけにいかなかった。すでに僕は、彼の言葉に従おうと決心していた。リッシントン行きの道をとると、気持ちを引き立てるため口笛を吹きながら、僕はせっせと歩きはじめた。
 すっかり暗くなったにもかかわらず、月はまだ昇っていなかった。しかし、僕の眼は闇に慣れ、垣根の間に青く沈んだ道を見分けることができた。蛾の羽のような翼を見せて、フクロウが1匹ひっそりと飛んだほかには、生物の気配がまったくなかった。家はといえば、これまでにたった1軒、農家を見かけただけだった。もう道のりの半分を歩いたかと思われる頃、垣根のそばに道標を見つけた。
  ハンバーリーへ2マイル
  リッシントンへ8マイル
 僕はすっかりがっかりしてしまい、今度はソーセージを取り出し、気分転換を図って歩きつづけた。
 やがて道が二手に分かれるところにやってきた。今度は道標が見当たらなかった。どこかにあるはずなんだが、と、いくら力んでみても見つからない。生垣に首を突っ込み、大きな音を立てて溝に滑り落ち、頬をとげのある枝で引っかかれた。それでも何も見つからない。
 川の土手の上で、あの背の高いスカウトにザックを投げつけたので、僕はロウソクも地図もコンパスも、おまけにマッチも持っていなかった。いったいどっちの道を行ったらいいのだろう。僕はすっかり途方に暮れた。仕方なく、ちょっと広めかなと思われるほうの道がたぶん国道だろうと狙いを定め歩きはじめた。
 何時間も歩いたような気がする。疲れ、体は冷え切って、惨めな気持ちになっていた。月が昇り、道端にまたひとつ道標を照らし出していた。
  ハンバーリーへ7マイル
  イーストハッデンへ6マイル
 恐れていたことが現実になって現れた。僕は道を間違えていたのだ。何とまあ、イーストハッデンとあのハンバーリーの駅に回り道ながらも戻りつつあったわけだ。力が体を抜けていく思いだった。僕は今歩いてきた道をのろのろと引き返し始めた。昼間だったら、道が二手に分かれていたあの地点までそのまま戻らずに、野原を横切ってリッシントンに通じる道に出られたに違いない。しかし今はそんな冒険をするだけの力も残っていなかったし、また、やっても、このぼんやりとした月の光の中では、道に迷ってしまっただろう。やがて、農場の門の前に出た。門の中には乾し草の山が黒々とそびえていた。僕は門を攀じ登り、乾し草の中にもぐりこんだ。あまりきれいではなかったかもしれないが、とにかく乾いた寝床にありつけたわけだ。
 目が覚めると、日光がわらに差し込み、驚いたように牛が寝床をのぞきこんでいた。飛び起きると、わらを払い落としながら外に走り出た。ねじを巻くのを忘れていたので時計は止まっていた。しかし日はもうすっかり高くなっており、男の人がひとり、牛を野原のほうに追っていた。駆け寄って時間を聞くと、
「だいたい9時だね。」
 男の人は、僕が突然こんなところに現れたというのに一向に驚いた様子もなく答えた。
「リッシントンに行きたいんですが、この野原を横切っていけば道に出られますか?」
 彼は頭を振った。
「いや、まず駅に出て、それから渡しがあるんだよ。」
 船! 僕は駅の脇を通って、リッシントンまでゆるやかな流れに沿って船が通っていることを思い出した。
「船の後をついていけば――」
「そうだよ。」
 彼は僕をさえぎって言った。
「船に乗ればらくらくリッシントンまで行けるんだよ。ちゃんとどこもうまい具合にできてるからな。まあ、5マイルってとこかな。」
 彼にお礼を言うと、僕は農場のもうひとつの門を乗り越え、外に出た。あたりは太陽の光の中に見ると、昨夜と打って変わったように僕に好意的に見えた。なにしろ最後に僕がした洗濯は、川の中に飛びこんだことなので、すっかり衣服は汚れていた。しかし、意気は揚々としていた。あと5マイル、今日1日それだけ行けばいいんだ。
 お腹がすき始めた。しかし僕はそれでも歩きつづけた。何時間も歩いたような気がしたとき、木の柵が目の前に現れ、その向こうに線路が見えた。線路の向こう端は川のほうに伸びていた。
 僕は暖かい日光を一杯に受けて草の上に腰を下ろし、オレンジジュースを飲んだ。たとえようもなくおいしかった。残っていたソーセージとチョコレートを食べると、また新たな自信が湧いてきた。まさか船で帰ってくるとは誰も思いやしまい。駅についてしまえば、後は道を2、3本横切るだけで、5分もたたずに郵便局だ。ゲームはもうこっちのものだ。
 簡単な朝食がほとんどすんだ頃、男の人がひとり、馬の手綱を持って角を曲がって姿を現した。長いロープが鞍に結び付けられており、やがて船が見えてきた。
 男の人がちょうど目の前にきたとき、僕は声をかけた。
「リッシントンに行くんですか?」
「この川を下ってほかへ行けるもんかね。」
 足を止めずに男の人は答えた。
 僕は立ちあがり、そばに歩み寄った。
「乗せてってもらえませんか?」
「いいとも。」
 彼はそれでも立ち止まらなかった。そして後ろに向かって叫んだ。
「おーい、バート、子供が乗りたいってさ。」
 ニコチンで黄色に染まった親指で後ろを指すと言った。
「後ろに乗んな。ロープに気をつけろよ。」
 僕は船が足元までやってくるのを待った。体格のいい、ひげぼうぼうの男が手を腰にあてて船の上に立っていた。へさきには肩掛けで顔を半分隠したおばあさんと、汚れた服の小さな男の子が2人座っており、あとは所狭しと材木が積まれていた。
「飛び乗んな。」
 男の人が叫んでよこした。
 楽に僕は狭い船に飛び乗った。女の人もその男の人も不思議な人たちだった。僕がどんなに骨を折っても、2人を会話の仲間に引きずり込むことはできなかった。僕が質問すると、答えは決まって「ああ」か「いや」、一言だった。子供は2人とも押し黙って、親指をなめながらまじまじと僕の顔を眺めていた。しまいには僕も口をきかないことに決めた。
 船室の壁には、花や城、それに幾何模様がけばけばしく塗りたくられており、狭い部屋は、だらしなく毛布が散らかったベッドが4つ、食べ残しの食料品、汚い食器、それにいやな臭いを発している石油鍋がのった食卓ひとつで占領されていた。
 僕は、船があまりにのろのろ進むのを知って狼狽した。もっとも、男の人が馬に引かせてやってきたときに気がつかなければならなかったことなのだが、ぼんやりしていたのだろう。せいぜい1時間3マイルくらいの速さだったろう。しかも、4回も水門を通らなければならなかった。門が開いてまた閉じ、水面が下がり、通れるようになるまでは、永遠に待つのかと思うほど長く感じられた。
 朝の太陽に野原はかすんで見え、雲ひとつない空にヒバリが鳴いていた。一度は、茶色の頭をしたミズネズミが1匹岸のほうに向かって泳いでいった。その後を大きな翼のサギがゆったりと泳ぎまわった。しだいに、船の遅いことに対する苛立ちがどこかに消えて、僕は、船旅を楽しみ始めた。歩けば半分の時間で目的地に着いたかもしれないのに、たった5、6マイルに船は3時間以上もかけ、野原が庭のようになってきたときには2時を過ぎていた。僕は、やっと村に帰ってきたことがわかった。
 僕たちが駅の裏側に近づいたとき、列車が1台、汽笛を鳴らして駅に入ってきた。僕は船室の屋根に腰を下ろしたまま、ぼんやりと走りすぎる汽車を眺めた。突然窓のひとつに見慣れた顔を見つけた。隠れる暇もなく、もう窓には隊の仲間がすずなりになって大声で僕に手を振りはじめた。彼らと、まさに同時に駅に着いたのはまだ幸運だった。後で知ったが、彼らは最後の地点で僕をつかまえるため、郵便局を見張ろうと早めに帰ってきたのだそうだ。
「あそこだ!」
「郵便局に行く前につかまえろ!」
「ドアを開けろ、飛び降りる用意をしろ!」
「もうこっちのもんだ。」
 重なる叫び声の中に、スカウトに見張り場所を割り当てるウオーリーの声が聞こえた。汽車が速度を落とし、スカウトがホームに飛び降りる前に僕は駅を出なければならない。
 僕は船のへりに駆け寄って、目測で岸までの距離を測った。幸いにして飛び越せそうだった。狭い船が許す限り僕は走り、そして跳んだ。
 向こう岸の砂利が膝に痛く感じられた。平均を失い、川に落ちこみそうになったが、体重を前にかけやっと持ちこたえた。
 船の仲間にさようならと言う暇はなかったのだが、とにかく後ろを向き、手を振って叫んだ。
「ありがとうございました。」
 彼はうなずいた。僕がこんな有様で船から出ていくのを何とも思わなかったようだ。僕は、まるで悪魔にとりつかれでもしたように、資材置場を駈け抜け門へと走った。
 郵便局に通ずる長い広い道に出たとき、汽車のドアの開く音、そして後を追ってくるスカウトたちの走る音が聞こえて来た。誰かが――すぐにマルコムだとわかった――すぐ数ヤード後に続いていた。そして彼はじりじりと追い上げてきた。僕はバスの前を走りぬけ、車道を横切り、広場に着いた。郵便局は広場の向こう側に建っていた。
 すぐポストに投げ込めるよう、僕は封筒をポケットから取り出すことに夢中になっていて、「カーブにつき注意」の立て札に注意しなかった。道路に飛び出した僕に、鋭いブレーキの音が起こり、1台の車があわてて道をよけた。封筒は僕の手から離れ、はっと見守るうちに反対側の歩道、しかもなんとポストの前まで飛ばされていった。初老の紳士が立ち止まり、封筒を拾い上げ、物珍しそうに見つめ、裏をひっくり返した。
 僕は夢中で怒鳴った。
「入れてください! ポストに入れてください! ポストに!」
 しかし、彼は聞き取れなかったらしい。
 マルコムが飛びかかってきた。そして僕の腕章をもぎ取ろうと身をかがめた。彼のガーターが僕の目に映った――それだけだった。僕は彼の足にタックルし、道路に押し倒した。彼が態勢を建て直す前に僕は立ちあがり、走ってくる車にも注意せず、大切な封筒を手にしてぼんやり立っている紳士をめがけて走り寄った。
「失礼します。」
 僕は叫ぶように言うと、紳士がまだなんのことか飲み込めないうちに封筒を手からもぎ取り、ポストに押し込んだ。
「どうしたんです。あれは君のだったんですか?」
 紳士は言った。
 勝ったのだ。密行ゲームは終わり、無事、時間までにポストに投函したのだ。マルコムがポストの口から封筒を引きずり出せないように、僕はあらためてまた封筒を中に押し込んだ。そして息を切らし、しかし意気揚々とあたりを見渡した。

(おわり)